頬
我儘な言い方をするなら彼は俺の右腕である。恋人でもある。
出会ったときは目の敵で、翌日には惚れられ、十年後には心酔
されていた。ある時は親友で、ある時は同居人で、そのうちに
部下になり、かけがえのない人になった。
獄寺君について知っていることは、彼が俺について知ってい
ることよりもずっと少ない。
俺は彼の出身地も、正確な名前(彼は家を出ると同時に跡取
りとしての名前を捨てたらしい)も、本当にクッキーが嫌いか
どうかさえも(甘いものが苦手なのはリボーンだけでは無いら
しい)知らない。
俺は彼が何と呼ばれて育ち、どんな物を食べて生きてきたの
か、失われた10年に彼がどんな道を歩んできたのか。過去の
片鱗すらも知らない。
彼は俺の13歳からずっと先のすべてを把握しているという
のに、彼の半生は謎のベールに包まれたままなのである。
俺は寝返りをうって彼の背中に頬をぴったりとくっつけた。
ついさっきまで彼と性欲のやり取りをしていたのだ。息は荒
く、心臓がいつまでもどきどきしているが、二日に一回くら
いの割合で交わっていると恥ずかしい感じはしない。お互い
の体のつくりを確かめることが、二人の間で日課になってし
まっている。
俺は獄寺くん、と彼を呼んだ。少し甘えた色合いだった。
彼は動かないで息をしている。俺がぴったり頬の皮一枚で
ひっついてしまっているから、振り向こうにも動けないのだ。
そういう馬鹿正直なくらい律儀なところが、純粋なひと
なのだと俺は思っている。
だからときどき、自分自身をも凶器にかえてしまえるのだと。
俺は彼を獄寺くん、と呼ぶ。いまだに彼を呼び捨てにし
たことは無い。彼の名前はどこか彼から遠く離れたところ
にある。獄寺隼人。運命的なほど整った姓名だ。
一度、俺と彼の名前を姓名判断に委ねてみたことがある。
ゼミの帰りだっただろうか。半分冗談だったのだ。その辺
にいた易者にたまたま声をかけられ、酔った勢いのままお
互いの名を告げただけのことだった。
「二人の相性は・・なかなかです。なかなかに良いようです」
易者は適当なことを言った。ほろ酔い加減の俺と彼は上
機嫌で、やっぱり十代目と俺は運命の赤い糸で結ばれてい
るんですよ、そうだねぇ相性良いみたいだね、なんて肩を
組んで、点いたばかりの街路灯が並ぶ道を歩いた。
俺がその後げえげえと胃の中の物を吐いたので、獄寺君
は黙って俺の背中をさすってくれた。辛抱強い手のひらは
記憶に新しい。ついさっきまで壊れそうなくらい抱かれて
いたからだろうか。
ベッドの端で横になったまま彼は動かない。きっと困って
いる。振り向けば俺が潰れる。起きれば頬が離れてしまう。
傍若無人にベッドで暴れても彼はこの期に及んで困惑して
いるのだ。
獄寺くん、少し痩せた?
右腕って名称は片腕なのにオーバーワークだよね。
君が過労で倒れたら俺たぶん、ボンゴレを相手どって裁判を起こすよ。
さっきまで君にどんなに激しい動きを強要したかなんて忘れて。
返事の無い彼の背中に頬を寄せ続ける。
角ばった背中も浮き上がった肩甲骨もいとおしいと俺は思う。
今だきちんと言葉にしたことはないけれど、俺は君を、愛しているよ。
君が思っているよりもずっと、ちゃんと君のこと考えているよ。
君がどんな思いで俺を見てくれていたのか。
初めて肌を合わせた夜、どうして君が俺よりも激しくわんわん泣いたのか。
ちゃんと、分かっているつもりなんだ。それが君の考える正解じゃなくても。
俺なりには。
この中身の無い脳みそでも、大切なものとそうでないものの仕分けくらいはできるから。
獄寺くん、なかなかの関係の俺たちは今後、どうなってしまうのだろう。
深くどろどろになるくらいに愛し続けるのだろうか。
月並みな別れの形を(それが本意かは別として)迎えるのだろうか。
障害は無くても、運命はあるだろう。俺たちはそこまで強くないから。
頬を寄せたまま眼を閉じる。背中は汗ばんだままだ。手を
伸ばせば抱きつける。体を寄せれば組み合わさることだって
出来るけれど、この皮膚一枚分の距離が俺と彼の境界なのだ
と俺は思う。俺はあまりにも彼について知らなさ過ぎる。
本当は頬の表面積くらいしか交じり合っていないのだ。
体中の水分を全部、使った振りをして。