男は追われていた。
帽子を深くかぶり、コートの襟を立て足早に薄暗い路地を駆け抜ける。
昨日雨が降ったばかりの路面は軽くぬかるんでいた。男は自分の足跡を見て
舌打ちしたがやがてそれを振り切るように走り出した。逃げることしかもう
自分には残されていない。弓張月が空にぼんやりと浮かんでいた。
男は逃げていた。
それはいま駆けている闇と同じくらい底のない、巨大な組織だった。
そこから抜け出すことは即ち死を意味したが、男は仲間の助けを借り
故郷へ脱走を試みた。郷里で待つ妻の笑顔だけが男の希望であり救いだった。
そのバーを見つけたのは偶然だった。
午後11時過ぎていた頃だろうか、男は額の汗を拭いごくりと
喉仏を鳴らした。朝一番の列車に乗る前に一度、休息を得たいと
思っていたのだ。できれば酒でも飲んで、この焦燥感を紛らわしたい。
追ってはどこまで来ているだろうか。分からない。その時は、死ぬだけだ。
男は茶色のガラスが埋め込まれたドアを押した。ドアに取り付けられた
鐘が耳障りな音を立てる。客が来た、という合図にカウンターの奥にいた男が
「どうぞ」と声をかけた。「ここ・・12時までだけど」
「構わん」
男は帽子を取り、カウンターに置くとその下の椅子に腰掛けた。
「ウィスキーを一杯」
マスターは若い男だった。イタリア語は流暢だが少々訛りがある。
移民か・・と思いながら客は店内を見渡した。玄関のすぐ前には
カウンター・・椅子は5、6脚か。カウンターの向かいには机と椅子が
数組並んでいた。昼間はカフェとして営業しているのだろう。メニューには
サンドイッチなど軽食も含まれていた。
男は差し出された琥珀色の液体を喉に流し込んだ。アルコールが喉に焼きつき
煮えた頭を冷やしていく。内装は古いがなかなか落ち着くバーだ、と男は思った。
緩やかに流れるジャズもほどよく自分を酔わせていく。
ふと、彼はカウンターで氷を削っていたマスターを眺めた。暗がりで表情は
見えなかったが、聞き覚えのある声色だったのだ。
「・・あんた、どこかで」
客が尋ねるとマスターは正面を向いた。その瞬間、男は絶句した。
「・・俺を知っているんだね」
カラカラとグラスの氷がなった。男の背筋を、先程駆けていた時とは
違う汗が、滴り落ちる。
「――ドン・・」
その続きを言うことは禁忌だった。彼の言わんとしたことは
相手にも伝わったのだろう。マスターはアイスピックを棚に仕舞うと
「俺に会ったことは忘れたほうが賢明ですよ」
と言った。声色は丁寧だが、はっきりと殺意が漂い・・男は心臓が
縮み上がりそうになった。
イタリアでも有数のマフィアのドンが消えたのは一年ほど前のこと
だった。それがどのマフィアの何と言うボスであるかは機密事項であったが
男は目の前の青年と一度だけ会う機会があった。イタリアの全マフィアが集う
総会議で一度、会話をした記憶があったのだ――もちろん、自分はただの
側近だったが。今この男がマスターをしている、という以上・・消えたのは
・・という強大なマフィアのドンであったことになる。それはイタリアの
マフィア全体を揺るがす出来事だったはずだ。
――俺は・・殺されるのか。
追っ手よりもむしろ、目の前の男の方が怖い。栗色の髪に、漆黒の
瞳を持つそのマスターは男を見て微笑むと、自分のグラスにワインを
注いだ。血よりも濃い色のロゼだった。
――昔話をしようか、と彼は言った。
「昔、ミラノのある古ぼけたバーに二人の若い男がやってきたんだ。
その日は朝からどしゃぶりでね・・着いたときは二人とも濡れねずみ
だった。イタリアに来たばかりの日本人と、片方は国籍不明だった
かな・・とにかく、二人とも人生にへとへとに疲れていた。
そのお客はカウンターについてお酒を飲むなりさめざめと泣き、
愚痴を言い、自分の不運を罵った。生きていくことも馬鹿らしいと
悪態をついた。片方の客は何も言わなかった。ただ黙って
ウィスキーを飲んでいた。
男の話を一通り聞いていたマスターはグラスを拭き終わると
『お客さんは運がいいねぇ』と言った。なんで、と客が聞いたら
マスターはにっこり笑って
『今日からここは"どん底"に改名したんだよ。今日はその
記念日だ。酒代はいらねぇ、どんどん飲んでいってくれ!』
と言った。
お客がそれは申し訳ないと言うと、彼は自分で開けたビールを
グラス一杯に注いで、こう言った。
『気にすることはねぇよ、ここは地の底だ、いくらでも
這い上がれる。――日はまた、昇るよ』
・・ってね」
マスターの話が終わる頃には男のグラスの氷は綺麗に解けていた。
時計をちらりと見ると彼は、「悪いけどもう時間だから」と言った。
男はがたがたと椅子を揺らして立ち上がった。マスターの話は事実なのか
フィクションなのか、確かめたい気持ちもあったが下手に触れると生きて
この店を出ることは出来ないだろう。
男がユーロ紙幣を出すと、マスターは「お代はいいよ」と言った。
「昔話に、付き合ってもらったからね」
男は伺うようにマスターを見た。先程の殺気は消え、穏やかな雰囲気が
笑みの端々から漏れている。客が玄関に向かおうとすると、マスターは彼を
制止した。「そっちはもう、閉まっているから・・」
裏口に男を誘導すると、彼はその耳元で限りなく小さくこう言った。
「・・表にいた追っ手、片付けておいたから」
驚愕した表情の背中を彼はぽん、と押した。温かく、見守るように。
「・・その角を右に抜けると駅がある。100メートルほど行った所だ。
始発は午前五時、駅舎で待てばいい――後は、分かるね?」
男は無言で頷いた。振り向くことは出来なかった。
「奥さんに・・宜しく言っといて」
暗闇の中へ男は駆け出した。マスターは遠くなる影を見えなくなるまで
追い、酔いを覚ましてからドアを閉めた。日付が変わると戻ってくる
同居人が、カウンターの前に腰掛けている。
マスターはその青年を見るなり苦笑した。
「・・ごめんね。余計な面倒かけて」
黒いスーツの男は、開けたばかりのウィスキーを煽っている。
変わってねぇよな、と彼は言った。
「そういう――かけなくていい情けを、かけるところは」
「君が俺のお願いなら何でも、聞いてくれるところもね」
自惚れるんじゃねぇよ、と彼はワインをグラスに注いだ。
マスターはそれを受け取り、一口喉に落としてから
「でも助かったよ・・ありがとう」
と言った。
「・・あの話の続きはよかったのか?あれから――二人は
どうなったのか」
「さぁ・・どうなったんだろうね、どこかでバーでもやってるん
じゃないの?」
マスターが笑うと、向かいの男もわずかに口元を緩ませた。
――そういう落ちもまんざらじゃない。
例えば、自分たちのように。
彼らはそれぞれの一年前を男の後姿に重ねると、かちんと
グラスを重ね合わせた。
男の前途へ祝福を。
その未来が光の降り注ぐ――明るく輝かしいもので、あるように。
[ hopefull bar ]
――光の溢れる場所、そこは