[ 記念日 ]
丸一日がかりでボンゴレファミリー生誕祭やら歴代のボスを
讃える集いやら得意先への挨拶周りに追われ、一息ついたときには
午後十時を過ぎていた。祭りの後、と言った様子の本部を抜け
一番奥の執務室に戻ると、彼はちゃっかりとシャンパンの蓋を
明け、琥珀色の液体をグラスに注いでいた。
「・・お疲れ様」
ありがとう、と言ってグラスを受け取りわずかに交わすと、カチンという
小気味よい音がした。そうしてささやかに祝杯をあげるのが、イタリアに来て
からの誕生日の過ごし方だった。
――ただ、今日ばかりは勝手が違った。俺は彼の向かいのソファーに腰を
下ろすと生唾を飲み込んで咳払いをひとつした。改まった話をするときの癖が
ついついこういうところでも出てしまう。
「・・昨日の話だけど」
やっぱり受け取れないよ、と俺は懐から白い封筒を差し出して
机の上に置いた。
リボーンは足を組んだ姿勢でそれを一瞥して、少しばかり表情を
曇らせた。残念そうな眼差しだった。
「理由を聞きたいんだ。まずは」
話はそこからだった。何の説明も無しに辞表など受け取れない。
彼の今のファミリーに置ける位置を考えれば。
「どうして、いきなり――」
「契約、終了だったんだよ」
彼に遮られて俺は質問を止めた。見上げると、足を元に戻した
リボーンが両手を机の上に置いて俺をしっかりと見つめていた。
知りうる中で一番、真剣な表情だった。
「ボンゴレとの契約は今日まで。9代目の一周忌が終わるまでだ」
「・・あ」
思い当たる節があって俺は声を上げた。彼は初めからボンゴレに
属していたわけでなはなく、最初はフリーの立場で依頼を受けて
俺の家庭教師を引き受けたのだ。それから先の怒涛の日々はもう
語るまでもないとは思うが、俺が正式に跡継ぎ――いわゆる十代目と
して認定された夜彼は所属をフリーからボンゴレに変えたのだった。
その理由をいまだ聞かされたことは無い。
10月15日、それはボンゴレの創立記念日でもあり、九代目
――いわゆる前代の死んだ日でもあった。俺が人を初めて殺した夜だった。
仕事は簡単だった。こめかみに拳銃をつきつけてトリガーを引くだけ。
練習したときはあんなに震えた右腕が、本番は微動だにしなかった。
こころさえ、凍り付いてしまったようだった。
その時俺はボンゴレという悪魔に魂を売り渡してしまったのだと思う。
そしてその後初めて彼に抱かれた。こういう形でしか、癒せない傷があることを
知った。俺の後釜が俺を殺しに来る日までそばに居てくれるものだと・・
俺は、勝手に思っていた。
彼の契約終了の期限に気づくまでは。
「再契約しよう、書類はすぐに用意する」
俺が立ち上がろうとすると、彼の左手が俺の右腕を引いた。
少し、強い力だった。
「それはしない。もうボンゴレとは組まない」
「・・リボーン!」
聞き分けの無い子供のような言葉に俺は声を荒げた。
彼は一体に何に対して意地を張っているのだろう。それが分からなくて
俺はその場に腰を下ろした。掴まれた腕はまだ、指先に力が
こもったままだった。
「君らしくないよ、こんなの」
「俺らしいってのは、どんなだ?」
返答に窮した俺を見つめるのは、真っ黒な
いつ見ても真っ黒な底の無い瞳――俺の胸の内なら
何でも見抜く、憎らしいくらい歯切れの良い洞察眼。
それに心を奪われて踏み込んだ道だった、というのに。
彼だけ舞台を下りるなんてそんなこと――出来るわけが無い。
許せるはずも。
「とにかく・・ここで君に降りられたら困るんだ。
俺も・・獄寺君も、みんな」
「――それは、ボスとしての言葉か?」
彼の言葉に俺は押し黙った。彼の言わんとすることが胸に
突き刺さるように届いたからだった。彼は、試しているのだ
――俺の、思いを。
「沢田綱吉は――俺を、どう思っているんだ」
何でそんなこと、と俺は思った。そんなのここに来る前に
捨てたはずだった。胸の奥で押しつぶして見えない振りをした
はずだったのに――今俺を揺さぶるのは彼の真摯な眼と
まっすぐな言葉。
ひとりの人間として彼をどう思っているかなんて。
そんなのもう、自明じゃないか。
「・・どうしても、言わせたい?」
俯いて漏らした言葉は湿っていた。こんな形で告白させられるくらいなら
情を交わした後、冗談地味た調子で愛してる、という罰ゲームの方が
幾分ましだった。いまさら後悔しても遅いけれども。
「・・好きだよ。ずっと好きだった・・だからお願い。
ずっと――そばにいてよ」
俺が死ぬ――その日まで。
言いながら恥ずかしさと情けなさに涙が出て、俺が頸を
振ると――何か、柔らかくて温かいものが右手の甲に触れて
俺は眼を開けて前方を見た。
騎士のように手の甲にキスをする――彼の姿が目の前に、あった。
まるで祈りを、捧げるように。
「・・リボーン」
「契約するよ。今度はお前自身とな」
彼の言葉に俺はほんと、と跳ねるような声を上げてしまった。目頭に溜まった
はずの涙も一気に吹っ飛んでしまった。
「ただしお前の命令は聞かないからな。俺は俺の意思で動かせてもらう」
「別に何だっていいよ、リボーンがそばにいてくれるなら」
左手で両目をごしごしと擦りながら答えると、少し笑った彼が大きく
もうひとつの腕を引いた。体勢を崩した俺の耳元で、彼はそっと
「――覚悟しとけよ、馬鹿ツナ」
と、言った。
――その懐かしい響きに気づいたのは五秒後のことだった。
『ツナ』・・彼が俺をそう呼ばなくなって一年が経つ。
俺が彼のボスに就任した夜から、彼は俺をそう呼ばなくなった。
駄目、とか馬鹿という不名誉な冠はついていたけれど俺は確実に
彼にとっての『ボス』だった。
何だか10年前に戻ったみたいで嬉しくなって彼に抱きつくと
いつもより強い力で彼が――抱き返してくれた。愛を交わした
日よりも嬉しくてしばらく俺はその固い感触に身を投じた。
彼の腕の中で幸せを一通り噛み締めて、俺はひとつのことに気づいた。
「・・ねぇリボーン、もしかして――」
ボンゴレとは、契約しないって言ったのは。
「五月蝿い。これ以上喋るな」
「ちょっと、リボーン、苦しい――」
彼の力と言葉で会話は途切れた。息もうまくできないくらい
強く、強く――抱きしめられる。もう、離さないといわんばかりに。
「・・お前はおとなしくしてればいいんだよ。――駄目ツナ」
はっきりそういわれて俺は嬉しくて頷いた。どんどん罵倒して
虚仮にされても構わない。甘く優しいリボーンなんて、リボーンじゃないよ。
「・・明日から、一週間休暇取るからな」
「え?」
いきなりの彼の言葉に顔を上げると、覚悟しとけ、とばかりに
不敵な笑みを浮かべた瞳が二つ俺を見下ろしていた。
いつのまにか彼の右手にあった、例の真っ白な封筒が開封され
――その中身を彼はそっと引き抜いた。
取っておきの誕生日プレゼントのように出てきたものは・・
ミラノ発パリ行きの往復航空券――しかも二名分だった。
「リボーン、これ・・」
「ホテルは五つ星取ってある」
死ぬほど――贅沢させてやるからな、と彼は言った。死ぬほど
――俺を味あわせてやる、と。
「でも・・急に出かけたら獄寺君心配するね」
彼の慌てふためく姿が眼に浮かぶようで俺が、少しだけ
右腕のことを気にかけると彼は、密着した身体を離して
俺の瞳にキスを落とした。
「・・そういうボスの我儘を処理するのが、右腕の役目だろうが」
なぁ、ツナ――?と囁かれて俺は頷いて彼の胸元に顔を寄せた。
何度でもそう呼ばれるのなら、何度その響きに犯されてもよかった。
それから俺と彼は少し遅いハネムーンに、日付の変わるころ出発した。
朝書置きをくわえたレオンが発見されてボンゴレ中が大騒動になるのは
開け放たれたままの窓を彼が見つける午前八時の出来事だった。