自分を呼ぶ声がするのは夢だろうか、と少年は思った。
すでに黒煙は舞い上がり視界も不良だった。誰かが自分を必死に
揺さぶり、手足の縄を解いていく。
 掠れ行く視野に写ったのは――とても懐かしくて、温かい
黄金色の髪だった。


――俺・・死んだのかな?
 意識を手繰り寄せながら、少年は思った。あんなに恐怖を感じた
熱も、どす黒い煙のむせるような匂いもしなかった。
 ここが天国だとしたら――あのとき俺を迎えに来てくれたのは
天使だったんだな、と少年は思った。知り合いにとてもよく似た
天使だった。


「眼が覚めたか?」
 ふいにかけられた声に、少年はがんがんと音を立てて揺れる頭を
支えながらゆっくり右を向いた。
 ドアにもたれるように立っているのは――二週間前別れたはずの
ディーノだった。


「・・ディーノさん・・なんで」
 目の前の現実が把握できず、少年は問うようにディーノを
見た。あの夜確かに彼とは別れて、部屋をでたはずだった。
こちらから連絡したことも、彼の紹介した花屋を訪れたこともない。
 ディーノは半ばパニックに陥っている少年の額に手をあてて
体温を確かめた。煙を多少は吸ったようだが、特に意識に異常は
ないようだった。ディーノは安堵した表情で微笑むと、少年の
髪をくしゃくしゃにするように撫でた。


「無事で・・よかった」
 彼の言葉に、ようやく――自分は彼に助けられたのだ、と
少年は悟った。どんな方法かは分からないが、ディーノは
自分の危機を聞きつけ命を賭して助けにきてくれたのだ。
 炎はどんどん勢いを増し、煙は倉庫内に充満していた。
消防服でもないと飛び込めないような現場だった。
「ディーノさん・・俺――」
 生きている、と実感したとたん少年の眼に涙が溢れた。
彼に助けられて――そしてもう一度彼の部屋にいる。
あの後路地裏で何度も願ったことが今・・目の前に
在る。
――もう二度と・・会えないかと、思ってた。
 ベッドの上でぽろぽろと涙を零す少年を、ディーノは
包み込むように抱きしめた。部屋を去ったときよりいくぶんか
痩せたようだが、華奢な体を抱きしめると体の芯が甘酸っぱく
なった。


  「・・ディーノさんっ」
しばらくディーノの腕の中に居た後、少年は思い出した
ように叫んだ。自分が煙に巻かれる前の出来事が脳裏に蘇った
からだった。
「今すぐ逃げて――あいつらが・・」
 鍵を取られてしまったこと、よからぬ連中がディーノを
狙っていること・・伝えたいことがまとまらず、少年は慌てて
外を指差した。
「・・あれ?」
 窓の外の見慣れない風景に少年は気づき、挙げた右手を
下ろした。外に広がるのはいつもの路地裏ではなくのどかな
田園風景だった。

「あいつらって南部のやつのことか?」
 ディーノに聞かれて、少年はたぶんと頷いた。
「俺・・ディーノさんにもらった鍵を取られて・・」
 ああ、あれかとディーノは言い
「心配ない。もう片付いた」
 と答えた。そのまるで仕事上の取引のような台詞に
僅かな違和感と、戦慄を感じた少年はディーノに
問い返した。
「片付いたって・・」
 ディーノは少年を一瞥すると、無言でテレビのスイッチを
入れた。画面いっぱいに広がるのは――煙を大空にたなびかせて
炎上する・・二人がかつて暮らした部屋だった。
「・・あの二人がやったんですか?」
「いや、自業自得だ」
 少年はテレビから視線をディーノに移した。彼の感情の
こもっていない台詞に、ほんの少しだけ恐怖を覚えながら。


「不正に侵入しようとしたから、爆破されたんだ。
セキュリティの一環だよ」
 淡々とした口調で、ディーノは説明した。部屋の鍵は内側
用と外側用二種類あった。少年が持っていたのは内側用で
それは鍵の掛かった部屋を中から開けるためのものだった。
「・・じゃあ、玄関で待ってろっていうのは」
 少年は自分の想像の先に絶句した。例の二人組は内側用の
鍵を外側用の鍵穴に差し込んだのだ。だからセキュリティが
発動し部屋は跡形もなく吹っ飛んだ。
 おそらくその場にいた二人組も・・助からなかったのでは
ないか。
 敵と裏切りには非常に手厳しいマフィアの世界を垣間見た
気がして、少年は押し黙った。貝のように動かない彼を一瞥
すると、ディーノはテレビのスイッチを切った。ディーノに
とっては住処を暴かれ襲撃されることも、返り討ちにすることも
日常茶飯事だった。


 ディーノは何も言わず、少年をそっと抱き寄せた。僅かに涙の
滲んだ瞳と眼が合うと、ディーノはゆっくりと少年に・・口付けた。