都会の喧騒を離れ、二人で過ごす日々は
至福の時と言っても過言ではなかった。
 ときどき取引や会議に出かけるディーノを
見送ると少年は部屋を片付け、洗濯物を干し
夕食を準備して彼の帰りを待った。
 待ちくたびれてテーブルで寝付いてしまった
少年を、ディーノがこっそり寝室へ運ぶ日も何度か
あった。


 業務に復帰したボスの、生き生きと働く姿を見て部下は
――ボスは、例の美人とよりを戻したのだ
 と、口々に囁きあった。ボスに関する噂は既に尾ひれがついて
いて、同居しているのはかつての幼馴染で金髪の美女だ、とか
二人は既に結婚して子供まで居る等、根拠の無いデマも飛んだ。
 それはもちろんディーノの預かりしらぬところで
流されていたが、もし知ったとしても彼は特に気には
留めなかっただろう。


  この業界において嘘と欺瞞は酸素のような存在だった。
すぐ目の前にあるが見えず、下手に吸い過ぎると命を縮める
――だからこそ、真実のみを見抜く確かな眼さえあれば
生き残ることができるのだ。

 ディーノは彼の家庭教師の教えを重々承知していた。
惑わされるな、信じるな、――ボスとは決して揺らぎをみせない
ものなのだ。けしてはったりでも、本心を明かしてはならず
必要をあれば嘘でも利用する。
――それは、この世界で生き抜くための処世術だった。

 ディーノと、いまだ己の名も知らぬ少年は幸せだった。
そう、彼の正体を知る――本当の闇が訪れるその日、までは。



 彼がディーノの隠れ家を訪れたのは、終わり行く夏の日の
午後だった。
 ディーノ以外誰も鳴らしたことがないチャイムが鳴り、
彼はドアの覗き窓から外を確認すると・・徐にドアを開けた。
 玄関に立っていたのは――伝説とまで称された最強最悪の
ヒットマンだった。


「久しぶりだな」
 まぁ、入れよとディーノが入室を促すと、男はここでいいと
頸を振った。全身を真っ黒なスーツで包み、揃いの帽子をかぶった
男はディーノの後ろに控える少年を見据えると、短く告げた。

「帰るぞ、ツナ」

 少年はびっくりしたようにディーノを見たが、彼は男を
見たまま振り返らなかった。男の目的はかつての教え子ではなく
彼のかくまう少年にあったのだ。
――『ツナ』・・それは自分の名前なのだろうか。 
 少年は名前を呼んだ男を、恐る恐る見た――その瞬間、背筋に
怖気が走り・・彼は倒れそうになった。


「本当に・・何にも覚えていないんだな」
 男はため息をつくと、「帰るぞ」と少年に右手を伸ばした。
真っ青になった少年はディーノにしがみついたが、ディーノは
ただ呆然と男の言葉を反芻するだけだった。

「――ツナ?こいつが――『ツナ』なのか?」
 ああ、と男は息を吐いた。
「この細いのが――我らがボンゴレ9代目の唯一の
落とし胤――だよ」

 ディーノは蒼白になったツナを支えながら、男を
仰ぎ見た。信じられない、という眼だった。
「待ってくれ、リボーン・・じゃあ俺は――」

 彼の言わんとすることを察してか、リボーンは
口元を歪めて微笑んだ。

「少々のことには眼を瞑るよ。例えば・・
――こいつを泳がして南部の密偵を始末したこととか、な」

 リボーンの言葉に、さらに血の気の引いたツナは
尋ねるようにディーノを見た。自分を支える男は
唇を噛み締めたまま、リボーンを食い入るように見つめている。

「泳がした後で、良心の呵責に耐えられなくなったのか
栄養失調になったんだってな。お前らしいよ」
 彼は、ここ数週間のディーノの動向をすべて把握していたかの
ように笑った。何もかも、見通した笑みだった。

「どういうことですか・・ディーノさん」
 ディーノから手を離すと、少年は微動だにしない男を
疑念と不安の混じった瞳で見つめた。

「――答えてください、ディーノさん!」
 思わず叫んだ言葉は、涙に湿っていた。
ディーノの表情は明らかに曇り、苦悶に歪んでいた。
 釈明する余裕さえ――感じられなかった。

「俺を・・利用したんですか?」
信じたくない、と祈りながら少年はディーノの
袖を引いた。いつものように彼に笑って、否定して
欲しかった。
――お願い、嘘だと言って。

「・・ディーノさん!!」

 最後の力を振り絞って叫ぶと、少年は彼の袖を
掴んだまま泣き崩れた。何も告げない彼がすべての
答えだった。
 ディーノが何故、彼に内側用の鍵を渡したのか
孤児院などには預けず少年に自由を与えたのか
――監禁された少年をいともたやすく見つけることが
できたのか。

 もし、ディーノが何らかの形で部屋を出た少年の
動向を把握していたと仮定すれば・・最後の謎は
すぐに解けた。
 彼は少年が尾行され、狙われることを前提に
少年を巻き餌にしたのだ――自分の身辺を狙う
敵対勢力を洗い出し、体よく抹殺するために。
 二重尾行・・それは――マフィアの常套手段でも
あった。


 少年はよろよろと立ち上がると、ディーノを横切り
玄関に出た。彼は両目を擦りながら、ディーノに一礼
した。利用されていたとはいえ、雨の中自分の命を
救い出してくれたのは彼だった。
 ディーノは頭を垂れたまま、立ち尽くした。
その表情が耐え難い心痛に歪んでいたことに
少年は気づかなかった。

 リボーンは少年の様子を見やると、迎えの
ベンツを玄関に寄せた。二人の別れの挨拶は
済んだようだった。

 二人を繋ぐ糸を断ち切るかのように、木製のドアは
鈍い音を立てて閉まり――それから二度と
開かなかった。



<第一部・終了>