ディーノはハイヤーの行き先を本部から自室に変更した。
運転手は怪訝そうに彼を見たが、何も言わず車を発進させた。
 少年の頭を自分の膝の上に乗せ、ディーノは着ていたスーツの
上着を彼にかけてやる。少年の額に手を当てながら、彼は知り合いの
闇医者へ携帯電話をかけた。
「・・東洋人だ。ああ・・熱が高い」
 ディーノは他言無用、とだけ言って電話を切る。目の前の少年の素性が
知れない以上、正規の医者は呼べなかった。


 彼は少年の額にハンカチを当て、何度も汗をぬぐった。途切れ途切れに
息を吐く唇は苦しそうなものの妙に艶かしく、怯えるように自分を見上げた
茶色の瞳にディーノは吸い込まそうになった。
 雨に濡れたシャツは華奢な身体の輪郭をはっきり示し、細い首筋に栗色の
髪が張り付く様は扇情的ですらあった。


 ――彼は・・あの娼館から逃げてきたのでは?

 そうディーノは直感したが、彼には通報する気もオーナーに引き渡す気も
なかった。
 ――まずは、熱が下がってからだ。

 ディーノが、目の前の少年がマフィア業界を揺さぶる大きな火種であることを
知るのはまだ先のことだった。




「お前に、ああいう趣味があるとは知らなかったな」
 腐れ縁の闇医者、シャマルは一通り少年を診察すると
開口一番そういった。

「誤解するな。拾っただけだ」
 シャマルは腕はいいが、女癖がめっぽう悪く何度か痴情の
もつれで殺されそうになったのをディーノが助けていた。
 その縁あって彼は、たびたびディーノから依頼を受け表に出せない
患者を格安で診ていた。
 冷えたディーノの声に、シャマルはおどけた様に両手を振った。

「まじになるなよ。ま・・それだけべっぴんさんってことだ。
出るとこ出せばいい値段で売れる」
 ディーノはシャマルをぎろりと睨んだ。他意はなかったものの
その凄み様にシャマルの背中から冷や汗が滑り降りる。
「別に売りゃしねーよ。なんだ・・ほんとにお前のコレか?」
 右手小指を挙げたシャマルに、ディーノは拳銃を向けた。
「いいから失せろ」
 慌てて両手を挙げた彼から銃口を下ろし、ディーノは手短に
告げた。余計な詮索は無用だった。
 

 シャマルが用意した薬を飲ませると、少年の熱はほどなく引いた。
すうすうと寝息をたてる穏やかな顔を見下ろしながら、ディーノは
自分の行動を反芻した。
 少年を置き去りにしなかったこと。こっそり家に連れ帰ったこと。
わざわざ看病したこと――少年の寝顔を見て、ほっとしていること。


 そこには己が納得する合理的な理由も、メリットもなかった。
ただ抗いようのない何かに導かれるように彼を助け、こうして
かくまっている。
 それは偶然というにはあまりにも繋がり過ぎていて・・運命と呼ぶには
まだ遠かった。


 ディーノは少年の左腕に光るものを見つけ、彼のシャツの袖を
まくった。その左手首に鈍く光っていたのは・・鎖のちぎれた手錠だった。
 おそらく彼と誰かを手錠で拘束していたのだろう。事故か、故意に行われたのか
とにかく鎖はちぎれ、彼は片時の自由を得たのだ。
 
 ディーノは彼の細い手首を握った。力を入れれば簡単に折れてしまいそうだった。
その握り締めた腕から伝わる血脈は、弱弱しかったものの確かな鼓動を刻んでいた。
 そのとき彼の胸に暖かな何かが湧き出た。愛しさとも、熱情とも違う温かさ
――それまで近くにいた他の誰とも違う、安らぎに似た心地よさだった。

 ディーノは少年の髪を軽く撫でると、その額に触れるだけのキスをした。
この感情の名前も、その行く先も知らなかった。