「ボス、最近生傷が絶えないっすね」
部下の一人に言われて、ディーノは右手の甲を眺めた。
何かが引っかいたような跡が生々しく残っている。
「ああ・・猫を飼ってるんだ」
猫ですか、と部下は自身の傷をぼんやりと見つめるディーノを仰ぎ見たが
特に詮索はしなかった。ディーノは無類の動物好きだったが、ペットは今まで
飼ったことがなかった。
ディーノは右手の傷を、ぺろりと舐めた。先日の出来事が脳裏に蘇る――
「やめて!離してください・・!!」
眼を覚ました少年は、熱を測ろうと触れたディーノの手を激しく拒絶した。
少年は己の名も、イタリアに行きついた境遇も覚えておらず、怯えと敵意を
含んだ瞳で彼を睨んだ。微かに震える身体に、ここから逃げるだけの体力は備わって
おらず、少年は布団にくるまったままぐうぐうと腹を鳴らした。
――この状況で・・信用しろと言っても無理、か。
ディーノは爪跡がついた右手を撫でると、ため息をついて床に
ピザの箱をおいた。少年のためにわざわざ注文したものだった。
「それを食うといい。トイレは部屋を出て右のドア、シャワーは左。
チャイムが鳴ってもお前は絶対に出るな。――分かったか?」
少年は強い瞳でディーノを見つめ返した。半信半疑といった様子
だったが、彼はディーノの姿が見えなくなると、ピザの箱に飛びついた。
出来立てのそれはチーズがとろりとして、とても美味しかった。
ピザを両手でほうばりながら少年は涙を零した。何も入っていなかった胃に
暖かいものがなだれ込む度、恐怖と安堵が込み上げた。
自分は何者で、どうしてここにいるのか。さっきの金髪の男は
自分をどうするつもりなのか。熱に侵された頭の中は空っぽだった。
ただ・・自分が何かから逃げてきたことだけはぼんやりと感じていた。
それは――とても恐ろしくて真っ黒な何か、だった。
彼は己の左腕をしっかりと拘束する、銀の輪に気づいた。それを
見ただけで吐き気がした。
自分と繋がれていた、右腕の持ち主は誰だったか。思い出す勇気も
なかった。
少年はピザをぺろりと平らげると、よろよろと立ち上がった。
彼が向かったのはトイレでも、シャワーでもなかった。少年は
頑丈なドアノブに手をかけると、玄関に座り込んだ。それは
内側からも鍵が掛けられるようになっていた。
「逃げようとしたのか?」
少年が目を開けたとき、彼の身体はベッドに横たわっていた。
声のした方に振り向くと、先ほどの男が向かいの椅子に腰掛け
紙袋を漁っている。
彼は飛び起きて、ベッドの上で蹲った。懐疑と恐れを含んだ瞳は
怪我をした野生動物のようにディーノを睨んだ。
「ピザは全部・・食べたみたいだな」
ディーノは彼の方は見ず淡々と話した。彼は紙袋の中から
フライドチキンを取り出すと、少年に差し出した。
「あれだけじゃ足らないだろ」
にこっ、と笑ったディーノの手からそれを奪うように取ると
少年は二口で平らげてしまった。
よく食うなー、とディーノは微笑み、自身もフライドチキンを
齧った。ジャンクフードは滅多に食べないが、持ち帰るには
手ごろだったのだ。
もうひとつ食うか、と彼が尋ねると少年は素直にうん、と
頷いた。
ベッドの端から伸ばす手はあいかわらず細かったが、血色は
随分よくなっていた。
少年がチキンを両手でほうばると、ディーノは嬉しそうに
微笑んだ。宝石みたいな微笑だった。
変な奴、と少年は思った。何がそんなに嬉しいのか。
――自分の食べっぷりが?・・まさか。
眼の前の金髪の男は、自分を閉じ込めはしたものの危害を
与えるつもりはないようだった。
ただ彼がどこの誰で、どんな仕事をしているのか
――どうして自分を助けたのか、分からないことばかり
だった。
ただひとつ確かなことは、少年がディーノの微笑みに
しばし見とれていたということだった。