ディーノが少年に部屋の鍵を渡したのは、シャマルが往診に来た翌日だった。
医者のお墨付きができたからな、とディーノは笑って鍵を差し出した。
少年はまじまじとそれを見て、何も言わずに受け取った。ホテルで使うような
磁気で認証するタイプのカードキーだった。
「それ、内側からしか開かないからな。もしうちに入りたかったら・・玄関で
待ってろよ」
ディーノは笑ったが、少年はそんな彼と鍵を交互に見つめると徐に口を
開いた。
「どうして、俺にここまでしてくれるんですか?」
全く面識のない街で拾った子供に、住む場所や食べ物、着る服まで買い与えて
手厚く面倒をみる理由がどうしても分からなかった。
何故自分を助けたか、そう彼に問いかけたときもディーノは笑って答えなかった。
彼もなぜそうしたか、分からなかったのだ。
ディーノと別れる前に、少年はどうしてもその理由を彼の口から
聞きたいと思った。何故知りたいと思うのか、自分でも理解しがたい衝動だった。
ただ彼の口から理由を聞けば・・なんの未練も残さず彼と別れられる、そんな気が
した。
「俺・・こんなにお世話になったのに。何も・・お返しできません」
少年は鍵を握り締めてうな垂れた。ディーノには自分を保護する意思はあっても
監禁する意思はなかったのだ。だからこんなにも簡単に、別れを切り出された。
――もう十分体力もついた。ディーノさんのそばには・・いられないよ。
そう思うと胸が苦しくなって、少年は緩んだ涙腺を無意識に閉じようとした。
が、できるはずもなかった――彼の眼からは大粒の涙が溢れ、それらは
顎をつたい、シャツに染みをつくっていく。
ディーノが自分を匿ったのは、自分が病人だったからだ、と少年は思った。
医者が元気、と言えば彼の家にいる合目的な理由はなくなる。
――ほんとうは俺・・ずっとここにいたい。
許されるのなら、彼のそばにいたかった。初めはただ恐ろしかったのに
今は・・一緒に食べたピザや、畳んだ洗濯物、並んでみたテレビが脳裏に
現れては消えていく。
彼が闇の社会の重要人物なんてことは、とうに忘れてそばにいた。それだけ
ディーノはこころ休まる――太陽のような存在だった。
ディーノは何も言わず、少年の頭をぽんぽんと叩いた。まるで幼い子供を
慰めているような仕草だった。ひとしきり泣いた後、両目を拭って彼は
ディーノを仰ぎ見た。縋るような視線だった。
「ひとつだけ・・お願いしてもいいですか?」
「何でもいいぜ?」
彼は咳払いをひとつすると、恥ずかしそうに目線をそらし
顔を赤らめた。
「ディーノさんと、一緒に寝ても・・いいですか?」
少年がこの部屋に運ばれてからずっと、ディーノはリビングの
ソファーで寝泊りしていた。彼は、自分がディーノのベッドを占領していることを
ずっと心苦しく思っていたのだ。
だから――最後の夜くらい彼と一緒に過ごしたかった。
ディーノは笑顔で頷いて、少年を抱き寄せると・・「元気でな」
と呟いた。少年はディーノの洗いざらした色のシャツに顔を埋めると
小声で「ありがとうございます」と返した。
さようなら、を言う勇気だけはどうしてもなかった。
彼のシングルベッドはディーノと少年がぴったりとくっついて
ちょうど良いサイズだった。ディーノに抱きかかえられる形で横に
なった少年は、「ソファーで寝ます」と主張した。
こんなに密着した状態では、彼だって眠れないだろうと思ったのだ。
「このままでいいよ。お前・・随分肉付きよくなったなー」
ディーノは少年の背中を摩ると、嬉しそうに耳元で囁いた。
少年は出会ったころより随分顔色もよくなったし、健康的な体つきに
なっていた。
耳に掛かる息がこそぐったくて、少年は身体を丸めるとディーノに
身を委ねた。間近で感じた彼は温かくて・・真っ白なシャツからは
青空の匂いがした。
翌朝ディーノが眼を覚ますと、ベッドに寝ているのは自分ひとり
だった。少年はディーノの知らぬ間にベッドを抜け出し、部屋を出た
らしかった。
ディーノはふぅ、と息を零すと、くしゃくしゃになったシーツを手繰り
よせた。一晩抱きしめた少年の熱が・・両手にはまだ残っていた。