「なーにほうけた顔してるんだ」
 シャマルは差し入れの赤ワインをテーブルに置くと、
前髪を掻き揚げた。
 小さな同居者がいなくなってから、ディーノの部屋は荒れに
荒れていた。フローリングに散らばる洗濯物や、読みかけの新聞、
キッチンに溢れた洗い物・・もともと男ひとり暮らしであるから
多少の汚さは仕方ないにしても、
――なんだか妙にやさぐれたなぁ。
とシャマルは思った。

 ソファーにぼんやりと座るディーノは空ろな眼で
窓の外を眺めていた。彼には珍しく、昼間からビールを
飲んでいた。
シャマルは自分の来訪に声ひとつかけない男にため息を
つくとワインの栓を開けた。差し入れといっても大部分は
自分で味わうために買ってくる。

「・・お前さ。あのチビに惚れてたんじゃねーのか?」
シャマルはグラスを揺らしながら、口腔に広がる濃厚な葡萄の甘味と
酸味を舌先で転がした。ディーノは答えるどころか、振り向きもしない。

――さっさと、抱いちまえばよかったんだ。
 と、シャマルは思った。ディーノと例の少年は端から見ていても十分に
いい雰囲気だった。少年の世話をするディーノは、まるで弟と子供と恋人が
いっぺんに出来たかのように微笑んだ。自分のもとでだんだんと元気になって
いく少年に、ディーノ自身が救われていたのは確かだった。

 少年は一週間程前に出て行ったというが、その詳細をシャマルは知らなかった。
実際彼自身も、少年が部屋を出たと聞いたときは驚いた。少年とディーノはあのまま
部屋で暮らすものだと彼は思っていた。

 ディーノが身寄りも、まして記憶もない少年を追い出すはずが無い。ならば・・
少年は自分の意思でディーノのもとを去ったと考えるべきか。

シャマルはワインを飲み干しながら、思考を巡らせた。少年が何者で今どこにいるのか
自分の情報網を使えば探りだせないものでもない、が・・ディーノはそれに感心しない
だろう。おそらく、彼は少年に最後に自由を与えたのだから。

 シャマルがディーノの横顔を覗くと、彼はソファーに持たれたまま
眠りこけていた。頬はげっそりと痩せ、半開きの唇は青ざめていた。


「――何やってんだよ、お前!」
 シャマルはグラスを置くと、ディーノの右腕を肩にかけ彼を
ベッドまで引きずった。以前より随分と、痩せたようだった。
――あれから、何も食っていなかったのか?

 シャマルはディーノをベッドに寝かせると、慣れた手つきで
彼の左腕に点滴を施した。薄青色のパックはいわゆる栄養剤で、
ほどなくディーノは浅い眠りについた。

「お前に倒れられると・・困るんだよ」
 ディーノの背中にはキャバッローネの行く末と、マフィアの微妙な均衡が
かかっている。闇社会で商売をするシャマルにとっても、ディーノは重要な
顧客の一人だった。

 ばかやろう、とシャマルは思った。惚れたなんて理由は何でもいいから
さっさとやって、体ごと繋ぎ止めてしまえばよかったのだ。なまじっか大切に
して甘やかすから、愛しい小鳥は手の中から逃げてしまうのだ――
一年前のあのときのように。

 シャマルはため息とつくと、携帯電話を取り出した。栄養失調気味のボスを
このままにしておくわけにもいかない。電話に出たキャバッローネの幹部に
症状を手短に伝えると、彼は知り合いの病院に紹介状を書き、それを残して
部屋を出た。
 幹部と顔を会わせると、最近のディーノの状況についていろいろ詮索を
受けそうだった。ディーノと、少年のためにも二人のことは黙っていた方が
いいだろうとシャマルは思った。



 少年はミラノの繁華街の路地裏で、膝を組みながらぼんやりと眼を
開けた。ディーノが渡した当面の生活費のおかげで食うもの
には困らなかったが、戸籍さえ分からない彼はホテルにさえ
泊まれなかった。

 彼は懐から、カードキーとそれを挟んだメモを取り出した。
それはディーノの部屋を出るとき、彼が少年に渡してくれたもの
だった。
――ここへ行って俺の名前を出せば・・面倒くらいはみてくれる。
 彼の残した住所は、ミラノ郊外のある花屋を指していた。ディーノの
知り合いが経営しているというその小さな店は、どこにでもあるような何の
変哲も無い花屋だった。

 少年はしばらくの間、ミラノの街に隠れてその花屋を観察した。
切り盛りしているのは初老の男性ひとりのようだった。住むところに
困るだろう、と心配を寄せたディーノが用意した紹介先だったが
少年は様子を見てから、行く先を決めようと思っていた。

   イタリア語には困らないし、手段を選ばなければこの街で生きる
方法はいくらでもあった。左腕に光る銀の手錠を見つめると、少年は
生唾を飲み込んだ。おそらく自分は何者かに拘束され、そこから
逃げ出したのだ――この鎖の先の人物が自分を探している可能性は
高い。もともと追われる身だ――この花屋の実直そうな主人にも
迷惑をかけるかもしれない、と少年は思った。

 少年はメモを畳んでポケットにしまうと、ディーノのくれた鍵を
握り締めた。部屋を出た以上必要もないものだったが、今となって
はこの銀色のカードが自分と彼を繋ぐ唯一の絆だった。

   ずっとそばにいられたらよかったな、とあれから何度思ったの
だろう。ディーノは最後まで優しかった。本当は、彼をもっと知り
たかった。いつもにこにこと笑顔を絶やさない彼がふとした
時に見せる影が・・ずっと気になっていた。
 その理由を聞けないまま、彼の元を去ってしまった。

 少年は何かを決意したかのように瞳を閉じると、カードをズボンに
閉まって立ち上がった。

 その時だった、少年の背後から真っ黒な棍棒が音も無く振り下り・・
後頭部に鈍い痛みを感じた彼は気を失って倒れた。


 少年を襲った男は、無言のまま彼を車の後部座席に押し込めると
足早にエンジンをかけ――何処かへ立ち去った。