眼が覚めたとき自分の身に起きたことを、俺はしっかりとは
覚えていない。記憶にあるのは、茫然と見上げた、雲ひとつない青い空と
俺の足元にうずくまった、灰色の毛並み。何の温かさもない、その塊が
いつか見た例の犬にそっくりだ、と気づいた瞬間彼が何をしたのか
悟った俺の眼から、ぽろぽろと涙が零れた。


「・・獄寺君」 
 ねぇ、起きてよ。そんなところで寝ていたら置いて帰っちゃうよ・・
俺は動かない彼をゆさゆさと揺すった。動かすたび夕焼けを反射する
灰色の毛並みは、ときどき光に照らされると銀色に輝いた。
 彼が――彼の「正体」がこんなに綺麗なものだったことを俺は
初めて知った。世界中のハンターが彼を追いかけるのも、なんとなく
分かる気がした。


「――だから、見つけても出て行くなって言っただろ?」
 声の方を見上げると、いつのまにか目の前にいたリボーンが
瞳に悲壮の色を浮かばながら立っていた。彼の忠告を無視したのは
俺だった。
「・・ハンターは獲物をすぐには殺さないんだ」
 撒き餌って言ってな、その獲物自体でもうひとつ狩りをする。
そういう貪欲な連中が揃ってるから、どいつもこいつも薄汚い値が
張る、と彼は言った。
 彼を見つけたとき俺は周囲を確認せず彼のもとに走っていった。
それを脇から狙っていたハンターに狙撃されたのだとしたら・・俺は
なんて・・


「・・魔力をもった生き物には、最期にひとつだけ仕える魔法が
あるんだ」
 リボーンの言葉に俺は冷たい獄寺君を抱きしめて、彼と交互に
見つめた。


「自分の命と引き換えに、大切なものの命を守ることが
できるんだよ」
「・・・」


 言い放たれた真実に俺は、涙を噛み締めた。あんなに傍にいたいと願ったのに
彼はあっけなく行ってしまった。阿呆な俺を庇って・・


 俺のために命を、投げ出して。


 しゃっくりを上げて泣き崩れる俺を、彼は済まなさそうに見下ろしていた。
 彼は息を吐いてから、もうひとつだけ、大切なことを告げた。


「・・こいつの忠犬になる魔法は、実は三日で解けるんだ」
「え・・?」
「持続時間は数十分から何時間ってまちまちなんだけどな
ビアンキの能力なら、もってもせいぜい三日なんだ・・」
 これは俺の推測に過ぎないが、と彼は付け加えて
「獄寺は、自分の意思でお前のそばにいたんじゃないのか?」


 俺は泣きながら首を振った。だって獄寺君は、十代目、十代目って
あんなに懐いてた。俺に恩返しをすることが心底嬉しいみたいだった。


「だって獄寺君には・・呪いが」
「解けたら直ぐに離れた主人もいたぞ」
 全部、確認したわけじゃないけどな、と彼は言った。
返事の出来ない俺は、ただその場に泣き崩れた。
 心臓の止まってしまった彼の呪いはすべて解け、彼は初めて
あらゆるしがらみから解き放たれ、自由を得たのだと思う。
 でもそれはときどき我慢のきかない獄寺君や、いつも俺の後ろばかり
ついていく獄寺君じゃないんだ。
 俺はもう、彼と一緒にいられない。
彼だけがずっとずっと遠くに行ってしまったから。





「あれ?もしかしてもう終わってた?」
 ひとしきり哀しみにくれた後、やってきたのは雲雀さんだった。
いつのまにか人間の姿に戻っている。
 まだ、これからだけどな、とリボーンは言った。
「さっきの不届き者、適当に片付けといたから」
 雲雀さんの言葉にリボーンは「恩に着る」と
返した。
 獄寺君がなくなって、何がこれから起きるのか俺には
さっぱり分からない。


 雲雀さんは動かない獄寺君を一瞥すると右手に
持っていた青い塊をコンクリートに投げ出した。空の青を
そのまま毛並みに落としたような、青い兎だった。
 それが目の前でコンクリートにぶつかりそうになり、俺が
声を上げた瞬間だった。その青い塊が歪んで、崩れた空間が
元にもどったときには・・分厚い辞書を抱えた少年がごろりと
屋上に横たわっていた。


「もー・・動物虐待反対!!」


 その少年は頬を膨らませると、ぷりぷりと雲雀さんに起こった。
よく動物が人間に変身するところを見かける一日だ。


「だいたいね、僕お昼寝中だったんだから!」
「・・狩られたいわけ?」
 雲雀さんの一声に、栗色の髪の少年はぴょこんと踵を
返した。苦情を言うと逆鱗に触れる恐れがあるのを
感じ取ったからだった。


「・・あ、じゃあ君が例のご主人なんだね。
ねぇねぇツナ兄って呼んでいい?」
 僕はフゥ太って言うんだ、よろしくねと彼は言い
俺に会えたことに感激したのか、嬉しそうに頬を赤らめた。
「へへ・・ツナ兄は特別だから、後料金でいいよ」
 彼はそう言うと、おもむろに皮の辞書を広げた。ぱらぱらと
ページを捲り、「狼」の章を出すと彼はすらすらとそこに何かを
したためた。加筆修正をしているようだった。


「灰色の狼は死去、でいいんだよね?」
 データ捏造は高いんだよーとフゥ太はリボーンに言った。
「例の口座に振りこんどけばいいんだろ」
「それに口外不要だからね」
 僕の信用に関わるから、と彼は言い皮の辞書をぱたりと
閉じた。
 それを見た瞬間、リボーンは懐から銃を出すと内ポケットから
銀の銃弾を一発、素早く装てんした。彼の「編集作業」を
待っていたようだった。


「また例の元教え子からくすねてきたの?」
 彼の動作に雲雀さんが口を挟むと、
「横領も横流しもやつの十八番だからな」
 とリボーンは答えた。
「随分横暴な天使もいたもんだね」
 君も早く向こうに行けばいいのに、と雲雀さんが言うと
リボーンは眉をしかめた。触れてはならない部分に少し
接触したらしい。
「・・君が、ここにいたいならいいけど」


 雲雀さんが視線をそらすと、リボーンは銃口を動かない
彼に向けて俺を見た。真剣な眼差しだった。


「獄寺隼人は一度死んだ――だから、もう誰も
灰色の狼を狙う奴はいない」
 こいつのランキングデータは絶対だからな、と
付け加えてから彼は
「こいつをもう一度・・生き返らせてやる方法がひとつだけ
ある」
 と言った。


 ただし、代償があるがな・・と彼は続けたけれど
俺は「宜しくお願いします」と答えた。


 用意できた台詞はそれだけだった。







 獄寺君を生き返らせる方法、それは命の源である
魂を内包した銃弾(それは天界の事務局で
厳重に保管されているらしい)を彼に打ち込むという
ことだった。
 なんらかの方法で獄寺君を仮死状態にしてもう一度
彼を復活させることをリボーンは考えていたらしいが
――俺のミスで先に彼が死んでしまったので、俺とリボーンは
駄目もとで最期の賭けに出ることになった。
 死んでしまったものを蘇らせることが出来る銃弾とはいえ
生きる意志のないものを呼び戻すことは出来ない、と彼は
言った。
 何らかの後悔を現世に残していなければ。


「・・後悔はしていないかもしれないけど・・きっと
俺に会いたがってると思うよ」
 自惚れでなく、俺はそう答えた。離れて淋しい思いをした俺は
彼の気持ちも、よく分かる。


「・・だから、大丈夫だよ。俺待ってるから。獄寺君が
起きてくれるまで毎朝毎晩、名前を呼ぶよ」


 彼が蒼い瞳をもう一度、開けてくれるまで。


「だから、大丈夫。彼が・・俺のことを忘れてしまっても」


 俺の言葉の後、金色の残像が彼を貫いた。俺は彼を
抱きかかえて部屋まで戻った。


 フゥ太は「大丈夫だよ。ツナ兄の明日の予定は
奇跡って書いとくから!」と言った。
 雲雀さんはいつのまにか居なくなっていた。
 リボーンは俺の部屋まで付いてきて、彼を俺のベッドに
横たえたところまで見届けると、ふらりと窓の外から
出て行った。リボーンは彼を撃ってから一言も発し
なかった。







 命を吹き込む代償は、記憶を失うことだった。
 獄寺君は命を吹き返しても今までのことをすべて
忘れてしまう。俺のことも、その前の主人のことも。


 俺は彼の寝るベッドに組んだ腕を下ろして、その上に顎を
乗せた。彼が起きるまでずっとずっと、こうして待っていようと
思った。


 俺はこれまでたくさんのことを知った。彼の知らない彼の
姿を知った。だから彼が目覚めたら、今度は俺のことをたくさん
教えてあげようと思うんだ。


 初めて君を頭から尻尾まで洗った日。
君を抱いて寝た日。びしょぬれの雨の出来事。
 突然現れた人間の君から学んだいろんなこと。
君を好きに、なったこと。
 二人で見上げた青空、見送った夕日。
お互いの身体を触った夜、恥ずかしくて起きられなかった朝。
 君がいなければ感じることもなかった、知ることも無かった
大切な感情。





 君が、誰よりも一番好きだよ。





 ・・だから、早く眼を覚ましてね・・

――獄寺君?





*おしまい*