その日の午後は雨だった。
鉛色の雲が空を覆う光景を見ながら
俺は傘を忘れたことを猛烈に後悔していた。
いつも一緒に帰る山本も、今日ばかりは
野球部の屋内練習があると言っていた。
ずぶ濡れになって帰ることを覚悟した
俺が下駄箱を後にしようとしたその時だった。
真っ黒な大きな塊が、突然俺に飛び込んできて
――そのまま俺は尻もちをついて倒れた。
「痛た・・」
見上げると、大量の水を毛皮に含んだ例の犬が
俺に嬉しそうに覆いかぶさっている。
「お前・・また待ってたのか!?」
はい、といわんばかりにその犬は吠え
その拍子に彼が口にくわえていたものが俺の
腹の上に落ちた。
それは、今朝母親が俺に持たせようとした
紺色の置き傘だった。
――雨の中・・傘をくわえて俺を待ってたんだ
そう思うと、胸の奥が苦しくなった。
雨だから迎えに来るな、と言っても犬だから
たぶん分からないだろうし。
校内で待てと言っても、警備員に追い出されてしまうの
だろう。
「ばかだな・・ほんと」
――俺のために、そこまでしなくていいんだよ。
何だか泣きそうになって俺は、そのずぶ濡れの体を
抱きしめる。
冷たい体の奥で、刻まれる心音にほっとして
俺は気づいた。
――自分も、離れたくないと思っていることを。
俺は傘を差して、彼と一緒に家に帰った。
「ただいま!」
玄関で母親に一声かけてから、俺は彼を風呂場に
連れて行った。
犬を洗うついでに、身体を温めてやろうと
思ったのだ。
もともと風呂好きのその犬は、嬉しそうに
尻尾を振り俺の顔をなめた。
ありがとう、といわんばかりに。
犬の身体を丸ごと洗って、俺もその横で
ついでにシャワーを浴びた。
部屋着に替えてから、俺は彼の毛並みを
ドライヤーで乾かし、綺麗に整えてやる。
うちに来てから栄養状態がいいのか、
彼の黒い毛並みは艶々としていた。
背中にそっと手をあてると温もりが伝わって、
俺はタオルでくるまれた犬に、顔をうずめる。
「お前さ・・うちの子になる?」
思わず呟いて、――それならこいつに名前をつけないとな
と、俺が思った瞬間だった。
何かが弾ける音がして、急に脱衣場で風が巻き上がって
俺は吹き飛んだ。
窓は閉まっていたはずだった。おかしいな、と思いながら
洗濯機で頭を打った俺が顔を上げると・・
眼の前にタオルにくるまった――少年がいた。
背丈は俺よりすこし上で、手足はすらりと
長かった。灰色の髪が、群青色の瞳にかかって
その整った顔をさらに印象付けている。
――あれ・・犬は?
眼前の光景が信じられず、ぽかんと口を開けたまま
座り込む俺にその少年は、優雅に微笑んだ。
「一生貴方のお傍にいます、10代目」
それから、俺は現実を把握するのにだいぶ時間は
かかったものの、彼が「獄寺隼人」とう名前で
「悪い魔法使いに呪いをかけられて犬の姿に
されていた」という言い分を受け入れた。
あれからどんなに探しても、あの黒い大きな
犬に出会わなかったからだ。
そしてその呪いを解く鍵が、「愛している人との
キス」と聞き・・俺はあまりにベタなその「呪い」に
ぞっとした。
彼が今までと同じように俺の部屋に居つき、
いつのまにかその呪いを解く行為を、人間の姿に
「戻った」彼としてしまう経緯はまた別に機会に
語ろうと思う。
人間の姿に戻っても彼は・・以前と同様に
俺を独り占めしたくて仕方がないみたいだから。
<終わり>
(ツナヒット部屋より再録)