[ 遠雷 ]



 ごろごろごろ・・ぴしゃっ。
遠くの西の空から響く太鼓を鳴らすような音と
薄曇りの天気を貫く、細い筋のような光を見ながら
ツナは隣で古語辞典を広げる兄弟子の顔をそっと覗いた。
 端正な顔立ちの奥の、透き通るような蒼い瞳が
すすけた赤茶色の分厚い本を食い入るように見つめている。
 本当にいい男は、何をしていても様になるのだ。
たとえ洗いざらしたシャツの上にタオルを巻いて
色の褪せたジーンズで胡坐を掻いていたとしても。


「雷・・鳴ってますね」


 ノートを走らせる鉛筆を止めた手で、ツナが窓を指すと
ディーノは顔を上げ、額に張り付いた前髪を掻き揚げた。
 窓には降り始めた水滴がいくつも、透明なリンクの上を
線を描くようにして流れていた。色のない真珠のような水滴は
軒下の大地に吸い込まれては消えていく――また再び雲が涙を流す
その日まで。


「雨が多いよなー日本って。大概・・夕飯時に
降るんだよな」
「にわか雨って言うんですよ」


 ディーノは宿題を始めてからずっと・・
――否、夏休みに入ってから表情の冴えない
ツナを気遣うようにそっと伺うように見た。
 眼の中に入れても痛くはない可愛い弟分の
横顔はこころなしか・・行き場のない痛みを
堪えているように見えた。


「・・元気ないな、ツナ。――なんか、あったのか?」
「・・えっ、あの・・その――」


 ディーノの言葉にツナは、持っていた鉛筆を落とし
そうになった。思い悩んでいることを、尊敬する
兄弟子に悟られてしまうことが本当はとても・・
恥ずかしかった。


バカンスと称して特別休暇を取ったディーノは
ツナの夏休みが始まってから、毎日沢田家に入り浸り
彼と寝食を共にしていた。
ツナの夏休みの宿題を手伝う・・というのは建前で
学校のない時期のツナを独り占めしたい、というのが
裏社会で今もっとも恐れられている新進気鋭のボスの
長期滞在の一番の理由だった。



 ディーノの滞在を、ツナは単純に喜んだ。忙しい合間を
練って自分に会いに来てくれるだけで、ツナは両頬を染めて
彼を迎え入れた。憧れの存在の傍にいられるというだけで
ツナは膨大な宿題にさえ感謝した。
 この蝉の音が鳴り響く間は朝も昼も夜もそばにいられる
――それだけで、天にも昇る思いだった。



 なのに――いざ夏休みが始まると、身を切るような
願いを抱きしめている自分がそこにいた。眩しい笑顔を
浮かべる彼がそばにいてくれる。毎朝自分の名前を呼んで、
一緒にご飯を食べて、たまには花火をして・・眠れない夜は
サイドランプの隣で横になって――まだ見ぬイタリアの地の
話を聞く。彼の温かい声を聞いているだけでツナはこころよい
眠りにつくことができた。
 何度、このまま時が止まればいいと願ったか分からない。



 自分を心配そうに見つめるディーノの蒼い瞳と視線が
合い、ツナは顔を真っ赤にして俯いた。


「・・ディーノさん、夏休み終わると・・帰っちゃうから」


 途切れ途切れの答えに僅かに滲むのは、押さえきれない寂寥感と
閉じ込めることのけして出来ない・・息の詰まりそうな祈りだけ。

 本当は、もっとずっと傍にいたい。この夏が永遠に続けばいい。
宿題が終わらなければ、熱い太陽が沈まなければ――




 彼の微笑がずっと、傍らにあるのに。




「・・すいません、俺・・我儘ばっかりで」


 そう祈る自分が情けなくて恨めしくて、誤魔化そうとして
笑ったものの、正面を向いたツナの瞳には大粒の涙が溢れていた。

 そのひとしずくが、薄紅色の頬を伝った瞬間・・
――ディーノは、ツナを身体ごと抱き寄せて、腕の中に
包み込んだ。
 流れるような一瞬の動きに、ツナが彼の腕の中にいることを
理解するまでに数秒を要した。




「・・ディーノ、さん・・?」


 呼びかける声はほんの少し掠れていた。涙を見た瞬間
おもわず――抱き寄せてしまったことをディーノは僅かに
悔いた。
 こんなにツナが、細いとも思わなかったし
こんなに彼を――愛しいと思っていたなんて

 抱きしめてその栗色の髪の、シトラスの香を嗅ぐまで
気が付かなかったのだ。


 一度手中に収めれば、離すことなどできないことも
もう二度と、自分以外の男にその髪一本たりとも
触れさせたくないことも
 自分の内側を焼き尽くしそうな、独占したいという
欲の炎も・・すべて、ツナに触れた瞬間悟ったことだった。


 ツナが、頼りになる兄弟子として自分を憧れの眼差しで
見ていることに、ディーノは出会った時から気づいていた。
可愛い弟分がそう望むなら、一生完璧なボスを演じ続けても
かまわないと彼は思った。
――でも。


 今自分が何より望むのは腕の中の純粋な少年の、心だった。
その曇りのない瞳に映るのは、自分だけであって欲しい。
その温かく優しい眼差しが見つめるのは――


 ディーノはツナを抱きしめる腕の力を緩めると、その隙に
彼の小さな身体を自分の膝の上に乗せた。密着は免れたものの
稀代の美形に至近距離で見つめられツナは・・俯いて押し黙った。
 彼が何を考えているのかツナには分からなかったが、こうして
そばにいられることは気恥ずかしくて、甘酸っぱくて・・
ちょっとだけ嬉しかった。




「・・ツナとずっと一緒にいられる方法が
――ひとつだけあるんだ」


 蒼い瞳に憂いを浮かべたディーノの言葉に、ツナは思わず
彼を振り仰いだ。


「・・・え?」


 目の前の最愛の人物は、怒ったような、困ったような真剣な
表情をしていた。
 何が愁眉を曇らせているのかツナには分からなかったし
自分の些細な我儘が彼を――困らせているのではないか、と
ツナは推測した。


「でもそれは――ツナを、泣かせるかもしれないし・・
痛い思いをさせるかも、しれない」


 彼の言葉にツナは頸を大きく横に振った。そんなことなんて
あり得ないし――在ったとしても気にならない、という返事だった。


「・・そんなことないです。ディーノさんの傍にいられるなら・・
俺、何でもします」


 不思議と溢れんばかりだった涙は乾いていた。彼の言葉の
真意を確かめるより早く、ツナはよどみなく答えた。
 彼が与えるものならすべて、欲しかったし・・それが
『ずっと一緒にいられる方法』なら、なおさらだった。





「だから――・・」


 言いかけたツナの唇を、ディーノのそれが遮るように
覆った。それをキスだとツナが気づいたのは、幾度か口腔を交わらせ
互いの唾液を飲み込んで舌と舌を離してからだった。


「――ディーノさ・・ん、・・ふ、ぁ!」


 背中に布団の感触を感じたツナが、思わず上げた両腕を
ディーノは自分の頸もとに組むように回した。
 汗ばんだ彼の首筋に触れた瞬間、体中に電流が走ったツナの
背筋は、しなやかに反り返った。
 何か――触れてはならないものに、触れた気がした。


ツナが『ずっと一緒にいられる方法』を身体で実感する頃・・
降り出した雨はやみ、雷もどこかに去っていた。
 結局散々泣いて、信じられないくらい痛い思いをした
ツナをディーノが優しく開放するころには・・朱色の滲んだ
西の空に行き先のない虹がうっすらと掛かっていた。


 もくもくと沸き立つ入道雲が、細くたなびく秋刀魚のような雲に変わる頃
彼ははるか彼方約束の地へ戻ってしまう――それでも
 何度も謝り、何度も好きだと言った大きな手に包まれていると
離れ離れになる寂しさなんて雨と一緒に流れて行った。


――ツナは幸せ、だった。