初めて心臓を抉った男の表情の苦悶を今も覚えている。
[ fakes ]
一年前。
「・・獄寺君、俺――ロゼが飲めないんだ」
「そうでしたか・・でも確か十代目は」
「昔は好きだったよ――でもね」
血を多く見すぎたみたいなんだ。
――二時間後、九代目が死んだ。
***
その男を見たときに浮かぶ言葉は今も、十年後も変わらない
――底の無い絶望を握り締めて、ツナは向かい側の椅子を引き
腰を下ろした。ゆっくりとコーヒーを飲んだ男は、カップから
口の端を離すなりうんざりした様子で眉を歪めた。
「・・久しぶりだね」
一呼吸置いてツナは話しかけた。彼の名前を出さないのは
追われる身分を配慮した上である。今は自分もそう変わらない。
リボーンはカップを置くと「その馬鹿面を見るのはな」と
返した。鮮やかな切り口も変わらない。ツナは相好を崩した。
喧嘩ごしな口調を聞くと安心する。
「大変だったよ、君を探すのは」
フゥ太でも、分からないって頭捻ってたもの、と付け加えると
リボーンはふん、と鼻を鳴らした。ランキングの星に見つかってしまう
ようでは最強の殺し屋になどなれない。
「それで――わざわざ何の用だ」
リボーンの言葉にツナは、鮮やかに微笑んだ。息も止まるような穏やかな
そして存在感のある微笑だった。
「獄寺君と喧嘩したんだ」
ツナは右腕をまくった。手首に強く、握り締めたような痣がある。
うっ血した腕にリボーンは眉を潜めた。ボスに傷をつけるなど、右腕に
あるまじき行為だった。
もう・・何もかも嫌になったよ、とツナは椅子に深く腰掛け息を吐いた。
円錐形のランプが並ぶ明るい店内には緩やかにジャズが流れている。
一年前からお尋ねものであった彼をツナが発見したのは
ちょうど二十分ほど前――ツナが行きつけのカフェに立ち寄った時
だった。
リボーンはあからさまに舌打ちをした。喧嘩してファミリーを飛び出した
家出中のボスなど、厄介者であることこの上ない。
「もう嫌になったのか、あいかわらず――」
「我慢が足らない?」
上目遣いに続きをいわれ、リボーンは彼を睨んだ。分かっているのなら
何故のこのこミラノの街角をふら付いているのだ。
一年・・、とツナは区切った。何かの感慨にふける眼差しだった。
「我慢したよ――君のいない日々をね」
視線を落として、テーブルに目をやると明らかに通路の向かいの客の
気配が変わった。リボーンもそれに感づいたのか、瞳を細めて頷いた。
追っ手がもう、近づいている。
伝票に手を出したツナを、リボーンは制止した。
瞬間リボーンは彼の右手を引き、何かがボスの肩を掠めた。
それが銃弾だ、と気づいた瞬間客のひとりが叫んだ。
道路にまで響くような金切り声だった。
女性の声にまじり、複数の銃声が響いた。籐のチェアーに血が滲む頃には
二人は従業員用の通路から路地裏に飛び出していた。このカフェには三年通ったが
無銭飲食は初めてだった。
***
「・・あれ、君の客?」
「さぁな」
心当たりが多すぎて分からん、と言われてツナは頷いた。
同感だった。
はぁはぁ、と肩で息をするツナにリボーンは苦笑する。
「だいぶ、勘が鈍ったんじゃねーのか」
「君だって、ひとつ外したじゃない」
気づいたのか、とリボーンは僅かに目を見開いた。外したのには
理由があるが――彼はそれをあえて伏せた。店内の監視カメラを狙ったのだ。
自分とツナが同席する記録だけは、残すわけにはいかない。
「・・ったく、お前のせいで――」
「ひとつお気に入りがなくなったね」
ジャケットを脱いで身体を冷やすヒットマンに元・彼のボスは
答えた。手をうちわにして仰ぐ姿さえ、今すぐ消えてしまいそうな
儚さに満ちていた。
ひとは生きるたび何かをひとつずつ、失っていくのだろうか。
――ガラじゃなねぇよな。
そうリボーンは思ったが、ツナは自分のジャケットの袖を握り
続けている。
「・・おい」
「連れて行って」
薄茶色の眼で懇願され、リボーンは二の句を噤んだ。振り払うことなど
簡単に――今この男を撃ち殺すことさえ容易いのに、今袖を離したら二度と
声を聞けない気がする。らしくない・・とリボーンは思った。
一年前のあの夜も、同様に感じたことだ。
「好きにしろ」
つかまれた服もそのままに、リボーンは歩き出した。後をとぼとぼと
付いてくるボスの気配が泣いている。悟られないように小刻みに震える肩を
見たとき彼は、抗いがたい衝動を必死に胸の奥に隠した。
まだ彼が自分を求める本当の理由を、リボーンは知らなかった。
ホテルの部屋に入るなりツナは出入り口で座り込んだ。
よっぽど気が張っていたのか、ただの運動不足か。リボーンは
封をあけたミネラルウォーターをボスに投げたが、受け取った
ツナはキャップを握ると「・・やっと捕まえた」と言った。
リボーンは飲みかけたミネラルウォーターを口から外した。
「――リボーン、君をだよ」
二人きりになった初めて呼べる名前は、懐かしさに満ちていた。
少なくとも、ツナにとっては。
その名前が禁忌になったのは一年前、ツナの前任が死体で
見つかった夜だった。心臓に複数の銃弾を打ち込まれた彼は
側近が見つけたときには冷たくなっていた。そして彼の横で
立ち尽くしていたのは――他ならぬリボーンだった。
九代目殺害の嫌疑が彼にかかったのは、殺し屋が
そのまま逃亡したからだった。元SPという複数の
側近でさえ手も足も出なかったというから、汚名を
かぶっても彼は最強なのだろう。
その日以来彼はお尋ね者として、頸に懸賞金まで
掛けられ複数のマフィアに追われる立場になった。
罪状はヒットマンとしては最も悪名高い主君殺しだった。
「・・どういう意味だ?」
リボーンの問いに、ミネラルウォーターを飲み干した
ツナは「彼を殺したのは君じゃない」と言った。
「――根拠は?」
「君は無駄な血を流さない。あの死体はあまりにも
血を流していたから・・一目で君じゃない、と分かった」
「・・それで?」
「だからずっと・・君を探していたんだよ」
リボーンはつかつかと彼に近寄ると、その胸倉を掴んだ。
問い詰めるような視線に、さすがのツナも額に汗をかいた。
「――だから、嘘をついたのか?」
「・・ばれた?」
ぺろりとツナが舌を出すと、彼は舌打ちをして引いたネクタイを
離した。ボスの嘘一つ見抜けないほど、もうろくした覚えは無い。
「やっぱり君には敵わないね」
ツナはうっ血した右手首を擦りながら答えた。喧嘩は狂言でも
暴力は真実だった。
「お前の言うことなら聞くだろう・・獄寺は」
「山本は反対したけどね」
再び袖を戻してツナは続けた。
「こうでもしないと――君は捕まらないと思って」
どういう意味だ、とリボーンは眉を顰める。
「俺がピンチになれば、君はきっと助けてくれる」
だから――獄寺君にお願いしたんだよ。俺に噛み付いてくれ、って。
ツナの言葉にリボーンは吐き捨てるように答えた。
「――慢心だな」
「でも、助けてくれたじゃない」
さっきのあの時も、と暗に言われてリボーンはベッドに
横になった。部下を垂らしこんでファミリーを飛び出す我儘な
ボスに付き合う時間などない。
「・・お前の勘違いだ」
さっさと行け、と言われてツナは表情を崩した。今にも
泣き出しそうな顔だった。
「――リボーン!」
「情けねぇ声・・出すな」
戻ってきてよ――と袖を掴まれリボーンは息を飲んだ。
いつのまにかベッドの端にひざまずいた彼が、肩を落として
むせび泣いている。弱弱しい背中は相変わらず隙だらけだった。
「・・帰ってきてよ――君がいなきゃ駄目なんだ」
思わずその髪を撫でそうになり、リボーンは上げた手を
下ろした。ベッドに上げたら見境がなくなりそうだ。
リボーンは起き上がると、部屋の鍵をツナに投げた。
「・・今日はそこで休め」
俺は適当に寝る、とリボーンは言い残して扉を閉じた。
閉まる寸前の空間で垣間見た彼の表情は、初めてボスの座を
手に入れた夜のように泣き崩れていた。
(続きます)