店の通用口に呼んでおいたタクシーに乗るとリボーンは
短くボンゴレ本部にほど近いホテルの名前を指示した。
 ボスと元・腹心の部下を乗せたタクシーは音もなく
出発した。向かいの通りは爆発と見物客でごった返し
数キロに渡る渋滞が出来ていた。なるべく人の多い通りを
通行するよう運転手に告げると、リボーンはシートにもたれて
息を吐いた。ホテルに付いたら本部に電話を入れてツナを置いて
去る・・そういう算段を整えたところだった。


「ねぇリボーン、どうして・・」
――俺があの時、彼の部屋に行ったって分かったの?
 ツナは語調を落として尋ねた。レストランを出てからずっと、気に
なっていたことだ。
「・・匂いだよ」
「匂い?」
 リボーンは両腕を組んだ。思考するときの彼の癖だった。
「お前にやった香水・・」
 あっ、とツナは声を上げた。思い当たる節があったからだ。
一年ほど前、リボーンからあるブランドの香水を貰った。
血の匂いが身体に染み付いて離れない・・と零したところ
買ってきてくれたものだった。
「あの匂いがしたの?彼の部屋で?」

 ツナは早口だった。血の匂いの立ち込めた部屋で、微かな芳香を
嗅ぎ分けたとしたら彼の鼻も相当なものである。驚嘆を隠せないツナに
リボーンはやれやれ、と肩を下ろした。主人の匂いひとつ分からなくて
その命を守ることなど不可能だ。
「・・本当に君は、人間の範疇を越えてるよ」
「お前がいつまでも半人前なだけだろ」
「・・悪かったね」
 ツナはぺろりと舌を出したが、たわいも無い話に花を咲かせる時間は
二人には残されていない。
 リボーンは単刀直入に尋ねた。
「九代目が死ぬ前に部屋に行ったな」
「・・リボーンに嘘は、つかないよ」
 さっき散々ひとを嵌めようとしたくせに、と思ったが口には出さない。
この駆け引きはお互いにとって諸刃であった。真実に近づけは近づくほど
誰かの裏切りと嘘を暴くことになる。

「でもやったのは俺じゃない」
「だろうな」
「・・信じてくれるの?」
「俺がここにいる理由を考えてみろ」

 ツナはリボーンを一度見つめ返してから・・そうだね、と
頷いた。
「・・俺を、庇ってくれたんだね」
 ツナはしみじみとした口調で言った。九代目が殺されれば、真っ先に
疑われるのはツナだった。微かな香水に気づくものがいなかったとしても
彼が殺された時点でツナが容疑者に入ることは確実なことだった。が、
リボーンが逃げたため内部犯行説は消えていった。皆、最強のヒットマンを
血眼になって追いかけたのだ。


 ありがとう、とツナは言った。礼には早ぇよ、とリボーンは
視線で返した。車窓をミラノの華やかな景色が流れていく。



「何のために九代目の部屋に行ったんだ?」
「ワインオープナーだよ」
「・・オープナー?」
 いわゆる栓抜きのことである。
「獄寺君がね・・ワイン持ってきてくれたんだ。でもそのとき
ちょうどオープナーがなくて・・借りに行ったんだ」

「いつ?」
「お昼過ぎかな・・ちょうど昼ごはん届いた後だったし」
 右腕とボスはたびたび一緒にランチを食べていた。リボーンは
話を聞きながら唸った。ワイン、オープナー、九代目、血まみれの死体、
僅かな香水・・何か、大切なことを見逃している気がする。
 それは戦慄を伴う予感だった。

「その時・・九代目には会ったか?」
「それが・・分からないんだ」
「・・どういう意味だ?」
「ノックして声をかけたけど・・何の返事もなくて。
ドアの鍵が開いていたからそのまま入ったんだ・・」
 オープナーが床に転がっていたためそれを拾い、「借りるよ」と尋ねて
自室に戻った、とツナは答えた。
 瞳の動きを観察していたリボーンは、おそらく彼は真実を
告げているのだろうと洞察した。物事を思い出そうとすると
瞳孔が一定の方向を向くのは、読唇術の基礎でもあった。

「・・鍵を閉めてなかったのか?」
――あの用心深い九代目が?
「そう・・俺もおかしいと思ったんだけどね」
 返事がなかったし、もしかして寝てるのかなって思って・・と、ツナは言う。
「寝てるならなおさら鍵は閉めるだろ」
 まして自分は唯一無二の首領なのだ。寝込みを襲われたでは話にならない。
「そうだよね・・俺・・全然気にしなかった」
 たびたび九代目からものを借りることがあったので、ツナは
返事が無いことを気に留めなかったのだ。
「九代目の姿は?」
「見てない・・思い出せないんだ・・ごめん」
 開けたドアから見渡した視野で、という意味である。
リボーンは頸を捻った。九代目は椅子に座り、背中をドアに向けて
倒れていた。机には空いたままの赤ワイン、倒れたグラス・・
溢れた血潮と・・血の気の無い横顔が突っ伏していた。
 もしツナが部屋を訪れたときには既に彼が殺されていたと
しても・・ツナには彼の様子が見えないことになるのだ。
椅子からだらりとぶさらがる――彼の足以外は。

「血の匂いは?」
「・・それはなかったよ。あの後部屋に入った後びっくり
したから・・」
 質問を止めてリボーンは思考を巡らせた。一つ一つが解けない
パズルのピースのようである。当てはめていけば・・少なからず
真実に近いものが出来上がるだろう。それが両者の望むもので
なくても。


 正午、獄寺が差し入れを持っていったときには九代目は顔を
見せている・・が、その後ツナが訪室した時には彼は何の返事も
していない。九代目が部屋の外に出た形跡は無い・・とすれば
ツナが部屋を訪れたときには彼はすでに死んでいた、という仮説
が成立する――もちろん推測に過ぎないが。
――あの殺し方なら・・ツナだって気づくだろう。
 リボーンは脳裏に焼きついた死体を思い描いた。匂いに敏感な
ツナなら部屋を開けた瞬間に死体に気づくだろう・・ならば彼はまだ
その時は生きていたのか?いや・・彼が血を流したのが、ツナが部屋を
覗いた後だったとしたら――?

「獄寺は何を持ち込んだんだ?」
 ふいに聞かれてツナは記憶を辿った。あの郵便物・・箱の大きさ
からして「ワインかな・・」とツナは答えた。
「ワイン?」
「そう・・確かあの時赤ワインが届いたんだよね。でも
飲めないって言ったら、しばらくして白いの持ってきてくれて」
「獄寺が?」
「うん。・・もしかしたら、赤いやつは九代目のところに
持っていったのかも」
「何だって・・!?」
「ロマネ・コンティの10年もの・・好きだったもんね、九代目」
 ツナは思い出深い眼差しを寄せたが、リボーンは脳天から背中に
稲妻が降りて行ったような衝撃を受けていた。
――ワイン・・そうか、あれか。
 九代目の机の上にあったワイン、確かにツナの言う銘柄のもので
あった・・あれは獄寺が九代目に献上したものだったのだ。そして
ツナが床に転がっていたオープナーで、彼はその封を開けたことに
なる。


「――もしかしたら九代目は・・」


 リボーンが言いかけたときだった。大きく車体が揺れ、二人の身体は
前のシートに激突した。ツナが小さく苦痛をもらすと、リボーンはすぐに
助手席に飛び乗り、ハンドルを持った。運転手は射殺されていた。
――頭に数発か・・プロじゃない。
 リボーンはそう判断すると、ツナに隠れとけ、と言った。
走っている車の中を狙うのはかなり高度な射撃技術を必要とする。
――次狙ってくるとすれば・・タイヤか。
 車体が大きく傾いた瞬間、前輪がぷすぷすと情け無い音を立てた。
予想通りのようだ。リボーンは頭を出さないように身体を伏せ、
目線の分だけ顔を上げてハンドルを切った。エンジンを打たれれば
木っ端微塵である。何とか路肩にタクシーを止めると、二人は慌てて
車内から飛び出した。駆け出して数秒後――タクシーが爆発した。


 はぁはぁ、と息を弾ませながらツナは言った。
「・・君といるといくつ、命があっても足らないよ」
 リボーンは答えない。あまりにも行動が読まれすぎているのだ。
ボスを着替えさえた意味が全く無い・・これでは本部にツナを明け渡す
前に爆破されてしまうのがオチだ。
「・・お前は何を隠してる?」
 殺し屋の言葉に息を上げていたツナも黙った。言葉が刺すように
冷たい。射るような視線とはこういうものを言うのではないか。
「――何も」
 すべて話したよ、とツナは答えた。眼を合わせていると視線に
睨み殺されそうだった。
「・・俺を茶化すのもいい加減にするんだな」
「――リボーン!?」
 彼はすたすたと路地を歩き出した。両手をスーツから出して
足早に駆け出す。ツナは必死で追いかけたが程なくして
見失った。命を助けてもらったと思ったら、今度は置いてきぼりだ。
いくら本部の近くまで行ったってこれはないんじゃないのか、と
ツナは思った。とりあえず迎えを呼ぼうとツナが懐から携帯電話を
出すと、その後から男が声をかけた。跳ねるような声は右腕のもの
だった。

「十代目・・!ご無事でしたか!」
「・・獄寺君・・」
 なじみの顔にツナは安堵した。本部近くで爆発音がしたため
もしやと思って駆け出してきたと彼は言う。
「・・十代目に何かあったらと思うと俺・・生きた心地がしませんでした」
「俺は大丈夫だから・・安心して」
 ツナの返事に獄寺の表情も緩んだ。さぁ、帰りましょう、と彼は
言った。身の危険をまざまざと感じていたツナは仕方なく頷いた。
リボーンを追いかけたいが、まずは一度本部に戻って体制を立て直さなくては
ならないだろう。そしてまたいつ彼を危険に巻き込むとも分からない
――ツナの返事に獄寺は安心したように微笑んだ。美しい蒼い目の下に
大きなくまが出来ている。ツナのことが心配で眠れなかったのだろう。


 獄寺がツナに背を向けたときだった。微かな拳銃の音が数発――彼の体を
貫いた。弾道に沿って血を流しながら倒れていくその姿はさながらスロー
モーション映像のようであった。


「・・獄寺君!!」


 叫んだツナが駆け寄ったときには、彼の体には幾筋か穴が開いていた。
抱き寄せて抱えるとまだ息がある――救急車を呼ばなくては、とツナが
携帯電話に手を伸ばした時だった。数秒早くその銀の四角い物体が
ツナの指先の直前で粉々になった。誰かが・・それを打ち抜いたのだ。
――極めて、至近距離で。


 ツナはおそるおそる表を上げた。今目の前に立っているのが
――おそらく、自分を付けねらう張本人であり・・九代目殺しの
真犯人なのだろう。
 顔を上げた先に立っていた人物にツナは絶句した。通路の真ん中に
立っているのは――ツナがもっとも「そこにいて欲しくない」と
懇願した人物だった。