鳥籠
ローマから特急列車に乗って約二時間。
片言のイタリア語と手描きの地図でたどり着いた花の都には、すでに夕日が差し始めていた。
石造りの階段を踏みしめるように上り、フィレンツェのシンボルとも言えるドゥオモの
バルコニーに辿りつくと、眼下に広がる優美な光景にツナは思わず感嘆の声を漏らした。
トスカーナ地方特有の赤煉瓦の屋根が連なる、石造りの街の中央には
ルネサンスの彫刻が美しい教会と、滔々と流れるアルノ河、向かいにはミケランジェロ広場が広がり
たくさんの観光客がカメラを手にダビデ像の周りに集まっていた。
イタリアの華と歴史を全て時間ごと閉じ込めたような眺めに、ツナは息を飲んだ。
神への信仰心が作り上げた、この世のものとは思えない芸術のような風景だった。
「――右手に見えるのが、ジォットーの鐘楼ですよ」
囁くような声がしてツナが振り向くと、右手を伸ばした灰色のスーツを着た男が
柔らかい笑顔を浮かべて立っていた。
十年前とは背丈も髪も伸び、より深みを増した蒼い瞳に
ツナは一瞬かける言葉も忘れて立ち尽くした。
――自分は別れを告げるためにここに来たのだ。
ボスにはならない、とツナが宣言したのは、十年前の中学の卒業式だった。
桜のつぼみも膨らみ始めた校舎裏で、ツナは既に日本とイタリアを
何度も行き来していたリボーンに直接そう伝えた。
彼は「そうか」と頷いただけで、特に何の感銘も受けずに出国した。
攫われて連れて行かれるのではないか、と想像し幾らか怯えていたツナは
あっさりと身を引いたリボーンの姿に安堵した。
中学三年の夏休み以降、単身イタリアで暮らすことになった獄寺とは
実に十年ぶりの再会だった。
それから高校、大学と順調に進路を進めたツナは大学最期の夏休みに
パスポートを取ってイタリア旅行を計画した。
もともとイタリアの文化に興味があったツナにとっては、卒業論文の材料探しの旅でもあり
またこの旅は、彼に会う最後のチャンスでもあった。
何度も日本を訪れていたディーノから聞いていたものの、それ以上に
十年という歳月は彼を成長させたようだった。
肩元まで伸びた髪を結わえ、銀のアクセサリーを重ね付けながらスーツを着崩す
スタイルは変わらないのに、それは十年前よりずっと格好よく見えた。
くわえ煙草も、随分様になっていた。
「ひさしぶりだね・・」
一呼吸おいてツナが答えると、彼は蒼い瞳を月の様に細めて微笑んだ。
中学の時から知っている、ツナだけに見せる笑顔だった。
「十代目は・・お変わりありませんね」
口元を綻ばせた彼とは対照的に、ツナは口を尖らせた。
「・・背だって少しは、伸びたよ」
確かに自分の容姿も、姿形も十年前とはそんなに変わらない。
二次性徴、というものをどこかに置き忘れてきたような状態にツナは苦笑した。
彼に十年分、追い越されたような気がしたのだ。
「君ほどじゃ・・ないけどさ」
苦笑したツナに、彼は笑みを湛えたまま近づくと、僅かに色づいた頬にそっと手の平を添えた。
沈み行く太陽の光が照らす彼の横顔は、先ほど見た教会のステンドグラスのように荘厳で
・・まるで映画のワンシーンのような仕草にツナは呼吸が止まりそうになった。
「・・貴方を迎えにいくと約束したのに、申し訳ありません」
手を当てたまま真摯に謝る彼の姿に、ツナの心は舵を失った船のように激しく揺れ動いた。
動揺していることを悟られることさえ気恥ずかしく、ツナは視線を逸らすと
頸を傾け彼の手から頬を離した。
「――獄寺君、俺は・・」
「知っています」
と、彼はおもむろに話しだしたツナの言葉を遮った。
その響きに込められている静かだが燃えるような決意をツナは知る由も無い。
「リボーンさんから聞きました」
十年前、と付け加えた獄寺の言葉にツナの眼から一滴の涙が零れた。
彼はどんな思いで待っていたのだろう。必ず会って、俺の言葉で意思
を伝える――そう約束した夏のあの夜から。
「ごめんね――俺・・」
十代目にはならない、とそうツナが言いかけた瞬間だった。
彼はツナの右腕を引くと力のままツナを――抱き寄せ、しっかりと両腕の中に納めた。
まるで捕まえた小鳥を逃さないかのように。
突然のことに慌てたのはツナだった。
背丈も肩幅も広い彼に包み込まれ――身動き一つ出来ない。
「獄寺君、離し――」
「十年前のあの日、俺は・・約束したんです。
貴方の気持ちを変えたら、俺を右腕にしてやると
リボーンさんは・・言いました」
よどみなく流れた彼の言葉に、ツナは二の句を失った。
別れを告げるためなら、ここに来るべきではなかった
――と言う思いが迷路に入った思考を席巻する。
今自分を繋ぎとめて離さない力に抗えるわけも無いと悟った瞬間
ツナには自分の未来が奈落の底に落ちて行く様子がありありと見えた。
おそらく彼は、真っ黒な未来に喜んで付いてくるのだろう。
――右腕、という十年待ち望んだ称号を携えて。
「――獄寺君・・」
返す言葉の続かない震える唇を、彼は啄ばむように塞ぎ・・痺れた舌を重ね合わせた。
ニコチンの染み込んだ唾液が切なさと絡みあう度、言葉にならない思いが涙の海をつたい零れていく。
重なる二つの影を包む、橙色の円形天井が美しい大聖堂は
さながら永遠を閉じ込める鍵の無い鳥籠のようだった。