「君が死ぬ夢を見たよ」
 新聞を畳みながらそう言うと、彼はコーヒーを入れかけた手を止めて俺の方を見た。
「・・そうですか」


 彼はぽつりと言っただけで、もう一度マグカップに眼を向けて
ポットから真っ黒な液体を全部注いだ。
その横顔がわずかに笑っている――いや、彼はずっと俺とこの部屋に
入ったときから笑っている。
もっと言えば、彼は初めてあったときからずっとわらっている。
俺に対してだけ、ずっと。
「何で嬉しそうなの?」


 白地に青いストライプが入ったマグカップを置いて彼は答えた。
ブラックが飲めない俺のためにいつも彼は特製のカフェ・オ・レを用意してくれる。
どんなに美味しいコーヒー豆をつかった極上の一杯だってオレは、飲まない。
彼の作った、甘くて少しぬるいカフェ・オ・レしか、飲まない。
「貴方が与えてくれるものなら、何でも嬉しいですよ」


 彼の差し出したマグカップを受け取って生暖かいこげ茶色の液体を口にすると
ほんのりとミルクの味が広がった。
「・・失言だったね」


 そうですか、と彼はもう一度笑った。
何を言っても、彼はまずオレの言葉をすべて受け入れる。
異論や否定を述べたことは十年そばにいて一度も――無い。
まるで彼の世界の決まりごとをすべて俺が制定しているみたいだった。


 昨日垣間見た残像を思い起こすことは容易くない。
でも確かに目の前の灰髪の男は息絶えて、あんなに俺が死ぬな、と命令したのに
さっさと向こうに行ってしまった。
 覚えているのは、号泣する自分の崩れ落ちる体と
――満足そうな彼の、満面の笑顔だった。


「・・やっぱり君はずるいよ」
 俺はそう言うと、残っていた液体をごくごくと飲み込んだ。
彼は穏やかに微笑んで午後の休憩の後片付けをしている。
 どうしてそんなに笑っていられるの?とその頸もとのネクタイを締め上げて
聞いたらきっと君は笑うだろう。そんなこと、と言って。


貴方の傍にいてどうして悲しい顔や、怒った顔ができるのです?


 俺は君を理解したいとも、理解できるとも思わない。
十年そばにいられるのは、俺を信じてやまない彼の思考回路が全く理解できないからだ。


「その時・・十代目は、泣いてくれました?」


 夢のことなんて記憶の端に飛びかけていた俺に、投げかけた彼の言葉は何故か
身を切るように切なくて――それに君はなんでそんな、辛そうな顔をしているの?


 泣いたよ。両目が零れ落ちるくらい泣いた。
朝余りに瞼が腫れ上がっていたから、鏡を見てひっくり返ったくらいだ。
でも、それと言うのは何だか悔しいので俺は「まぁ・・少しくらいは」と答えた。


 その時の彼の――この世の終わりともいえないような表情は
正直言って筆舌に尽くしがたい。
血色のよい頬はいきなり真っ青になりげっそりと痩せ、十年余分歳を
取ったかのような顔は美貌の影も無く朽ち果て、伸びていたはずの背筋は
先日会議であったばかりの長老方のように弓なりに曲がってしまった。


「ちょ・・っ、獄寺君、どうしたの?」
あまりの彼の変貌ぶりに慌てた俺は、必死で弁解した。
嘘だよ、いっぱい泣いたんだ、俺も死のうかと思った。
だから・・夢と分かって心底ほっとしたんだよ?


俺の言葉に彼はみるみるうちに回復した。
たぶん彼をこんなに元気にさせる栄養剤は「これ」以外考えられない。
獄寺君、ごめんね。俺、もう少し自分の言葉に気をつけるよ。


俺は彼をなだめて、その肩をぽんぽんと叩きながら言った。
たぶん夢で死んだ彼だって懲りたんじゃないかな?
たとえ夢でだって・・俺を置いて死んだりすると、こういうことになるんだよ?


「・・俺を置いて死ぬのは無しだからね」
「俺が死ぬのは有りですが、十代目がお亡くなりになるのは無しです」
「・・わがまま」
 俺が口をとんがらせると彼は、正面を向いて口を大きく屁の字に曲げた。


「それだけは譲れません」
「・・ぶはははっ」
 真剣な彼の表情に俺は思わず笑い出してしまった。
こんな綺麗な顔で、そんな漫才みたいな表情は「無し」だよ。
おかげで夢とか涙とかそういうの、全部吹っ飛んでしまったけど。


 俺は眼に溜めた涙を拭いていった。笑い泣きも、久しぶりだった。


「・・獄寺君はずるいよ」
「十代目の方がずるいです」


 へ?なんで、と俯いた彼の顔を見上げると、薄青色の瞳は真剣にこう答えた。




「今度は俺の夢にも、出てきてください・・!」




(十年後・イタリア・執務室で)