[ 破片の海 ]
獄寺君が死んだのは半年前のことだった。風もない無音の
夜だった。ファミリーの構成員の裏切りで、暗殺されそうに
なった俺を彼は庇った。右腕としては最良の判断だった。
彼を右腕に据えたときから、俺はこうなることを覚悟して
いた。初めて会ったときから、彼は俺のために命を投げ出す
覚悟をしていた。俺はそれを最終的に許した。それが彼の唯一の
誇りだったからだ。
彼を失っても、俺の生活はほとんど変わらなかった。彼の
代わりに側近についた山本は、彼と同じくらい俺のために
よく動いた。失うことなど、ボスの座についていた時から
覚悟を決めていた。彼を送る密やかな葬儀の後、俺は淡々と
業務に戻った。涙など、部下に見せられるわけもなかった。
俺も、獄寺君と争っていた山本も・・何も変わらなかった。
表面上は。
それでも着実に何かが、壊れ始めていた。
俺たちは確かに、以前の二人ではいられなくなっていた。
「山本・・っ、何する――」
ふいに掴まれた右腕を払おうとすると、そのまま体ごと押し倒され
俺は小さく声を上げた。柔らかく跳ね返すベッドの感触とは
裏腹に、抵抗する俺の両腕を痛いくらい押し開くと山本はいきなり
噛み付くようなキスをした。
「んんっ・・ふ、ぅ――」
飲み込めない唾液が零れて、シャツの襟に染みをつくる。
彼の舌に喉の奥までかき乱され、俺は酸欠状態のまま彼の背中を
どんどんと叩いた。
「やめて――あっ」
唇が離れた途端、彼は開いたシャツの隙間に顔を埋めた。胸元に
舌を這わせ優しく舐め挙げられ、俺は背筋が甘く痺れて仰け反った。
彼は俺の弱いところもいい所もすべて、知りつくしていた。
それは以前・・彼と同じように俺を愛した人物との行為を髣髴と
させるものだった。
「山本・・っ」
堪らなくなって彼の頭にしがみ付くと、彼は顔を上げて俺の
目じりにキスをした。笑っているのか、怒っているのか分からなかった。
泣いているようにも見えた。
「――あいつのこと、考えてるのか?」
耳元の掠れた声に、俺ははっとして息を止めた。
山本の名を呼んだ瞬間、浮かんだのは彼の顔では
無かった。脳裏を掠めたのは――自分を10代目と
呼ぶ灰色の髪の男だった。
「ちがっ・・」
俺は慌てて、頸を振って否定した。
嘘だということはばれていたが、認めることは
出来なかった。
山本は顔を上げると、懇願を滲ませた瞳で俺を
見下ろした。こんなに必死な彼の様子を見るのは初めて
だった。
「なぁ・・ツナ。――俺じゃだめか?
俺じゃ、あいつの代わりにもなれないか?」
「――違うよ。君と・・獄寺君は違うんだ」
「こんなときに、あいつの名前・・呼ぶなよ」
今にも泣き出しそうな声に、俺は二の句が
告げなかった。彼と君は「違う」
――その言葉だけは、本当だった。
山本はその身を俺の上に下ろすと、俺の
背中に腕を回して囁いた。
「なぁ、ツナ。俺だけを見てくれよ」
祈るような声に抱きしめられ、俺は初めて山本を
側近に置いたことを後悔した。
こころも体も繋げられないのなら、そばに置くべきじゃ
なかったんだ。
「あいつがいないときくらいせめて・・」
俺のことを好きにならなくてもいい。
あいつのことだって忘れなくていい。
だからこうしてそばにいるときくらい
俺のものに、なってくれ。
呪文のように脳裏を回る山本の言葉が
けっして守れない約束のように俺を苛む。
無理だよ。俺にはできない。こうして君の
腕の中にいても、俺の浅はかな想像は
ここには居ない人物の笑顔を思い描いてしまう。
残酷な程鮮やかに、君を裏切りながら。
絶望と悔恨と哀しみが入り混じって、俺は祈りを拒むかのように
瞼を閉じた。
俺は――最低の男だ、と思った。
だから、なのかもしれない。俺は彼の背中に手を回すと
顔を引き寄せて触れるだけのキスをした。
俺が彼に明け渡せるものはもう、何一つ残っていなかった。
俺の心と身体は全て、もうここにはいない人物のものだから。
山本にあげられるのは、これだけだったんだ。
「壊して・・いいよ」
小さな俺の言葉に、驚いたように眼を開いた
山本は問うように俺を見た。
「全部山本にあげるから、壊していいよ。
跡形も無くして、お願いだから」
忘れられない。忘れられるはずもない。俺は
けっして山本にものにはなれない。
ならばいっそ、この空の躯を砂のように砕いて。
影も無いくらいにばらばらにして。
それから君は、君の望むような俺を作り上げればいい。
砕け散った俺の破片を使って。
全部あげるよ、俺の抜け殻でいいなら。
「ごめんね。俺にはもう・・」
こうすることしかできない。
俺の頬に熱い何かが零れ落ちて、俺は
ゆっくりと眼を開けた。
頬を滴っていたのは大粒の・・山本の涙だった。
山本は、俺に覆いかぶさるように横になると
肩を揺らして低く・・嗚咽を漏らした。
漆黒の両目を溶かすかのように流れる
雫だけは・・彼と同じ、海の味がした。