神様。時間を止めてください。
[ 時計のない部屋 ]
病室の名札を確認すると、俺は深呼吸を
ひとつして二回、真っ白なドアを叩いた。
街が朱色に染まるころ、この部屋を訪れるのは
自分だけだったから、返答を確認するより早く
ドアノブに手をかけて開く。
出来うる限りの、極上の笑顔をつくって。
「ツナ、学校終わったのか?」
ベッドに足を投げ出して座る彼は、読んでいた
雑誌を脇に置きながら振り向いた。
「うん、これ・・今日のプリント」
鞄の一番先頭に並べておいた書類を
手渡すと、彼はわざわざ悪いなーと
笑ってそれを受け取った。
「毎日じゃなくてもいいぜ?けっこう
大変だろ」
山本が入院している病院と俺の家は正反対
の場所にあった。お見舞いと称して授業のプリントを
持参するのが、俺の放課後の日課だった。
「うん・・まぁ、俺一応学級委員だから」
よく分からない理由をとっさに並べ
俺は笑って誤魔化した。くじ運の悪さで
きまっただけの役職だった。
「けっこう進んだなー数学も」
彼はプリントを交互に見ながら
呟くように行った。彼の姿が教室から
消えても、時間だけは無情な程
正確に過ぎていく。
山本が、いわゆる野球肩で右腕を
故障したのは二週間前のことだった。
検査をするために受診した病院から
彼は入院するよう勧められた。壊した
右腕のリハビリではない。
――たまたま採取した彼の血液から
あってはならない物質が高度に見つかり
彼はとある病気と診断された。
それは増殖した細胞が骨自体を
壊し、そこから新たに骨を新生し続ける
という――治療が非常に難しく完治しにくい
病気だった。
彼の父親から話を聞いたとき、俺は
増えた細胞が骨だけでなく彼の肺にまで
達していることを知った。
――それが彼の寿命を、限りなく縮めると
言うことも。
「早く野球してーなー」
彼は包帯を巻いた右腕を上げたり
下げたりしながら、窓の外を仰いだ。
西から広がる紅色と、東に残る青色が
雲の無いパレットで混ざり合っている。
「たいがい大げさなんだよな、入院なんて」
右腕のリハビリ、と称して入院させられた彼は
自分を蝕む病気の姿を知らない。
それを知らせない、ことを彼の父親が決断したのは
ひとえに彼がまだ――野球ができると信じていた
からだった。
「でも・・ちゃんと治さないと。
また壊すと大変なんでしょ?」
彼の父親から聞いた言葉をそのままに
俺は笑顔をつくって返した。握り締めた
両手には汗が滲んでいたし、無理に上げた
口角は少々引きつっていた。
山本はうーん、と両手を組んで背伸びを
すると
「ツナまであの医者みたいなこというのな」
と、笑った。
俺には、彼の言葉の一つ一つが
映画のワンシーンのように聞こえた。
授業出なくていいのは助かるけど
けっこう暇なんだよな。
でも頑張り過ぎると、またおかしな
方向に走ってツナに迷惑かけちまうかも
しれないし。
こうしてのんびりできるのも、怪我の
功名ってやつかな。
できることなら、そのすべてを記憶の
レコーダーに録音して繰り返し繰り返し
聞いていたい。
彼の息、彼の汗、向日葵のような笑顔。
グランドを黙々と走り続ける後姿。
俺に数学を教えてくれる、ちょっと変な
鉛筆の持ち方。
――すべてが、いつか思い出になる。
取り返すことのできない、過去に。
彼の言葉に適当に相槌を打ちながら
俺は此処とは違う場所に思いを馳せた。
それは彼が一番輝く――四番のバッター
ボックスだった。
もう一度、彼をそこに立たせてあげられるなら
俺は何でもする。
最後まで、嘘をつき続けることになっても。
彼が、生きる望みを失わないでいられるならば。
「また復帰したら、見にこいよー」
俺が病室を出るとき、山本はきまって左腕を
振った。俺には、彼の手に見えないグラブが
収まっているように――見えた。
白いドアが音を立てて閉まると、彼はゆっくりと
腕を下ろした。受け取ったプリントを無造作に雑誌の
上に置くと、汗の滲んだ額を左手で掻きむしる。
「・・ちくしょう」
最愛の人の前では決して明かせない
焦りが、歪んだ口元から零れた。
夕暮れ時に訪室するクラスメイトは
きまってプリントを取り出して、たわいもない
話をし、日が落ちると帰っていく。
――馬鹿の一つ覚えみたいに、野球の話しかできねぇよ。
今、伝えないといけない気持ちは胸の中にある。
それを引き出せば、おそらく取り返しのつかない
ことになるだろう。
彼の記憶に残るのは、泣き叫ぶ自分か。残された生に必死に
縋るその姿か。
――それならば・・
いっそ思い出に残るのは、笑顔の自分であって欲しい。
それがかりそめの姿でも。醜態をさらして困らせるよりは
ずっといい。
だから。
彼は日の落ちた窓に映る自分を見ながら、己の内側を
喰らい尽くすような思いに蓋をした。
ガラスに映るわずかに微笑んだ自分は、彼だけに見せる
虚像だった。