よく分からないひとだった。
[ 彼の部屋 ]
「・・どうして助けてくれたんですか?」
尋ねたとき彼は、何も言わずに熱い液体を注いだばかりの
コップを俺に、差し出した。ふうふうと覚ましながら飲んだのは
とろりと甘いココアだった。
答えるのも面倒くさいということなのだろうか。
目の前にいる眼鏡をかけた青年は、例の黒髪の男の
忠実な部下だと認識していた。だから、彼の不興を買った
俺が若干死にかけたとき(それでさえ俺は彼の与えるものはすべて
受け入れるつもりだった)、所用で席を外した彼の眼を盗んで
俺をここまで運び込んでくれたことが、心底意外だった。
後から彼も俺と一緒に、お仕置きされるのだろうか――?
俺が連れてこられたのは、彼の部屋だと思われる一室だった。(彼が
何も言わないから、実際のところは分からない)
骸さんの私邸からほどなくの距離のマンションの、最上階の角部屋。
見渡すと一面の真っ白い壁、何の私物も無いキッチン、銀色の
冷蔵庫、皺ひとつないシーツが敷かれたシングルサイズのベッド。
その生活感の無さは、調度品の豪華な骸さんの部屋とは対極的だった。
モノトーンで構成された彼の部屋で、唯一色彩を与えていたのが奥の書斎に
ならんだ数え切れない程のCDだった。
おそらく彼専用のオーディオルームなのだろう。俺がそこをひょいと覗くと
若干彼の気配が変わった。俺の行動を彼なりに気にかけているようだ。
「柿本さん・・バッハが好きなんですか?」
「・・なんで」
彼の返事はとても小さくて聞き取りにくいけど、俺は彼の
意図がはっきりと分かった。
「G線上のアリアですよね・・今流れてるの」
木目の美しいスピーカーから流れる厳かな音楽に
聞き覚えがあった。骸さんの部屋に呼ばれたとき俺は
一通りのクラシックを叩き込まれたのだ。彼はモーツァルトや
ベートーベンが好きだったけれど。
書斎を覗き込んだ俺の腕を、彼は掴んでぐいと引き戻した。
プライベートルームは、主人以外立ち入り禁止のようだった。
ごめんなさい、と俺が言うと、彼は「違う」と答えた。
「・・飲食、禁止」
俺は湯気の沸いたココアを見て、ああと頷いた。
美しい音楽を聴くときには、出来るだけこころも身体も
空にしておく――それが、彼のクラシックのたしなみ方なのだろう。
(骸さんとだと、大概は音楽を悠長に聴いている場合で
なくなる)
「・・これ飲んだら、教えてくださいね」
――貴方が何を考えていて、どんな音楽が、好きなのか。
まだ温かいココアを両手でそっと温めたら、垣間見た
彼の横顔がほんのり、赤くなった。照れているのか、嬉しいのか
困っているのか・・俺にはこの、俯き加減の人物の考えが全く分からない。
でも、コップを受け取った手のひらが意外に温かくて俺は
何も言わない、表情ひとつ変えないこのひとの胸の内を少し
覗きたくなった。
「だから・・一晩だけ、ここに置いて下さい」
いつか骸さんが俺を連れ帰しにくるかもしれないという想像を
頭の片隅に置きながら尋ねると、彼は閉じていた眼をふっと
開けてまじまじと俺を見た。
彼を知るだけの夜の時間はまだ、十分にあった。