飲み終えたカップを彼に渡すと、彼はすたすたとキッチンに
向かいなれた手つきでそれを洗った。ぴかぴかのキッチンから
生活感が漂うのは彼の所作によるところが大きいのだろう。彼は
洗ったカップを丁寧にクロスで拭き取ると、流しの向かいの食器棚に
置いた。陳列された食器はみな一つずつだった。
一人暮らしなのかな――そんなことをぼんやりと考えながら彼を
見ていたら、俺の前を通り過ぎた彼がちらりと、視線を俺に向けた。
 何も言わずに彼の後をついていく。
 書斎から流れるのはアヴェ・マリアだった。


 部屋の真ん中に白いソファーがあり、その背面にずらりとCDが並んでいる。
向かいのスピーカーとデッキは幾分使い込まれたものだ(誰かの
おさがりなのだろうか)
 彼の後をついて書斎に入った俺は、ソファーの右端に座った。
彼は部屋の隅でもたれるようにして立っている。
 来客なのに主人より早く席についてしまったこと気づいて
立ち上がると、彼は「・・そのままで、いい」と言った。
「でも――柿本さんは」
「・・この方が、落ち着く」
「・・・」


――あれ?笑った?


 答えた柿本さんが少しだけ眼を細めて俺を見た。
冷たい氷が解けたような笑みだった。彼自身笑っていること
さえ気づいていないかもしれない。
 思わぬ彼の一面に嬉しくなって俺は立ち上がった。
「・・でも、俺だけ座ってるわけにはいきません――」
 ぐい、と灰色のシャツを引くと存外簡単に彼は俺の
腕についてきて、ソファーに腰掛けた。押しに弱いのかも
しれない。
「・・ここで聴いた方がきっと綺麗ですよ」
 両方のスピーカーから流れ出た音が天井を反射して交わる点
つまりは部屋のほぼ中央に、そのソファーがあった。
 ここは特等席なのだ。俺はてっきり彼がいつもここに腰掛けて
いるのだと思っていたがどうやらそれは違ったらしい。
 俺は隣に座る彼をそっと見た。綺麗にそろった黒い髪の
間から覗く目はしっかりと閉じている。よく眼にする彼の姿だ。
骸さんの部屋にいるとき彼は常に部屋の一番隅に、立っていた。
俺の主人がそう命令したのか、それとも彼の忠義心がそうさせるのかは
分からない。けれど――彼は確かに起立して、閉じた視線のまま俯いて
いた。彼の前で俺は、聞かれたくないことや見られたくないことを
骸さんからたくさん教わった。あのときもそう、俺は一瞬死にかけた。
言いつけを守らないと骸さんは天使みたいに笑って、鬼のようなことを
する。急用が入らなかったらそのまま彼の腕の中で昇天していたかも
しれない。それでさえも仕方ない――俺を、拾ってくれてここまで
育ててくれたのは他ならぬ、骸さんだったから。



 荘厳なカンタータを聴きながら俺は、白革のソファーにもたれて
眼を閉じた。この特上の席はきっと骸さんの場所なのだろう
――と俺は思った。だから彼は、ここには座らないのだと。
 いつも骸さんの膝の上にいる俺と、普段四角の隅にいる彼が一番真ん中に
いること――が不思議と奇妙で俺はくすりと笑った。何故かおかしかった。
 柿本さんが俺を見たので、俺は首を振った。鑑賞会を邪魔する
つもりはなかった。
彼との会話は、パイプオルガンの旋律の上を流れていくコーラスに
かき消されていくような気がして俺はもう一度眼を、閉じた。
 彼もたぶん、黙って延々と続く魂の声楽を聴いている。朝が来るまで。
ただそばにいるそれだけで、どうしてこんなにも安心するのか俺には
よく分からなかった。

 それは骸さんと居るときにはけして感じないような温かさと、心地よさで
・・俺はソファーにもたれたまま、うとうとと眠りについてしまった。