窓から差す日差しの温かさで眼が覚めた。身体を起こした時
どうやら俺に彼が掛けてくれたらしい毛布がひらりと床に
落ちた。淡い色合いの柔らかい布に、俺はふっと笑った。
言葉にならない彼の優しさを感じた気がした。


 毛布を畳んで部屋を出ると、狙い済ましたかのように
オーブントースターが小気味よい音を立てた。
 食卓には二人分の皿が向かい合うように並んでいる。
「・・おはようございます」
 俺が言うと彼は頷いた。焼けたばかりのトーストを二つ
真っ白のプレートに並べる。彼の向かいに座ると俺は、起きてから
一度も眼を合わせない彼をじっと見つめた。
「柿本さん・・イチゴジャムが好きなんですか?」
 粒の入ったそれを無言で塗る彼に言うと、彼は俺を
一瞥してからトーストに視線を下ろした。
「――甘いもの、嫌いじゃない」
「俺も、好きですよ」
 柿本さんは俺の分にまでジャムを塗ってくれた。テーブルには
ピーナッツバターもママレードも置いてあったのに、何故か二人で
苺のジャムを口の端につけているのがおかしかった。
 静かだけれど平穏な朝。こんな静寂の中でいつも彼は過ごして
いるのだろうか。夜はクラシックを、朝ははるか遠くの鳥の囀りを。


 彼の入れてくれたコーヒーはたっぷりミルクと砂糖が入っていた。
ブラックが飲めないことを彼がいつ知ったのか俺にも分からない。
「・・ありがとうございます」
 飲み終えてから言うと彼は「・・別に」と答えた。
「――来たくてきたわけじゃないから」
 そうですけど、と俺は続ける。ここに来なかったら息をしていなかったかも
しれないし、部屋の隅で縮こまっていたかもしれない。
 何よりこんな貴方の生活を、その温かさを知ることもなかった。
光と音に溢れた部屋で、ジャムのついたトーストをほうばることも
なかったのだから。


「柿本さん・・優しいんですね」


 そう言うと見つめた彼の黒い瞳が少しばかり開いた。
カラフルな骸さんの眼とは対照的な、吸い込まれそうな単色の瞳。
その深さに安堵するのは――何故?


 俺は食器を片付けると、玄関に戻って彼に一礼した。
「ご馳走様でした。俺・・帰ります」
 これ以上いたらきっと貴方に迷惑をかけてしまう。
――ここに一泊させてもらった段階で何のお咎めも無いのは
無理かもしれないけれど。
 彼の部屋にいたことは骸さんには黙っておこうと俺は思った。
 ここで知った温もりも、彼の意外な部分も。


「ありがとうございました」と言うと彼は横を向いてぽつりと
言った。耳を澄まさないと届かないくらいの音色で。


「――また、来ればいい」


 その横顔が少し照れていて俺は、笑った。面白くて
優しくて変わった人だと思った。話し方は短いのに
言葉のひとつひとつが切り取られた優しさのようだった。
 ほとんど変わらない表情が緩むと、宝石みたいな笑顔に
出会える。不思議なひとだと、思った。


 振り返らないように下を向いて玄関を開けると、その向かいに
見知った顔が立っていた。10時間前俺を置き去りにして人を
殺しに行った俺の飼い主だった。


「――骸さん・・」
 おはようございます、と骸さんが微笑んだ。その笑みに
心臓が凍りつきそうになった。
「此処に居たんですね」
 骸さんはそう言うなり俺の手首を掴んだ。触れた指先の
冷たさに俺はある想像を巡らせた。


――もしかして、骸さんは・・


「――待って、いたんですか?」
 彼は答えず俺の手首を引いて歩き出した。その力の
強さに俺は彼に倒れ込みそうになった。
「・・骸さん・・痛い」
 指先が食い込んで俺は、彼の腕にしがみ付いた。離してくれるとは
思わないけれど、柿本さんだけは巻き込みたくなかった。
 泊めてくださいとお願いしたのは、俺だから。


 彼の部屋がどんどん遠くなる。引き離す力は強くなる。
廊下を引きずられながら俺は後悔した。二度と訪れることはできない。
 何も言わない骸さんの横顔は何故か悲しんでいるように見えた。
怒ると吊りあがる目の端が何かに滲んでいる。
 骸さんは一晩中待っていたのだろうか。
 俺と彼が眠りに付く部屋の外で。何の音も届かない鉄の扉の向こうで。


 取り返しのつかないことをした、と直感した。
右手首を握り締めた骸さんがその力を離した瞬間、俺はいつも
彼を痛いことを繰り広げるベッドで仰向けになって寝転んだ。
 正確には投げ出されて何もかも剥ぎ取られた。


 俺の朝の仕事は冷えきった彼の身体を温めることだった。