十年小箱
大切な幹部会議に出席していたツナを無理矢理連れ出して
ヘリの後部席に押し込めたのは十年来の知り合いのある男だった。
いきなりのボスの不在に、一瞬幹部会議は騒然としたが、
彼の背後にある組織の名が知れ渡ると、ボスの途中退場に異議を唱えるものは一人もいなくなった。
泣く子も黙るマフィアの構成員と言えど、命が惜しいときもあるのだ。
ツナは部下達が戦々兢々と見守るのも知らず、窮屈なヘリの中で露骨に不満を顕にした。
すでに眼下にはミラノの摩天楼が小さな粒のように競り立っている。
「雲雀さん、俺会議中で――」
「僕に指図するんだ?」
男は隣で異議を唱えたツナの顎を、どこからとも無く取り出した
銀色のトンファーの先で持ち上げると漆黒の瞳を細めて切り返した。
ツナを困らせることが、無上の楽しみのような様子だった。
顎を容赦なく持ち上げる金属の冷たさに、ツナは生唾と一緒に苦情を飲み込んだ。
逆らうと何をされるか分からないのは、十年前と一緒だった。
覚悟を決めたらしいツナの様子に、彼は満足そうに頷くと銀色に光る長い棒をゆっくりと下ろした。
恐怖と戦慄で支配するのは彼の十八番と言ってよかった。
彼専用のヘリコプターは、既に今回の連れ去りの目的地に向かっていた。
気まぐれな彼がツナとのバカンスに選んだのは、イタリアとフランスの国境沿いにある
有数の高級リゾート地、ポルトフィーノだった。
トルコ石を並べたような海岸端にヘリを到着させると、彼は物見遊山で集まった
観光客を物ともせずツナの手を引いて悠々と歩き出した。
パステルで彩色した風合いの街には、高級ブランドの直営店や
予約なしでは席を確保できない有名レストランがひしめいている。
彼は立ち並ぶ高級ホテルの一つに眼を留めると、チェックインもせずに最上階に向かう
エレベーターのボタンを押した。
慌てて駆けつけた支配人らしき男は、二人のボディガード達から説明を受け
両手を重ねた姿のまま青ざめていた。
イタリアの闇を支配する男と、一晩で日本の裏社会を動かせる男が一度に来訪すれば
誰だって失神の一つも起こすだろう。
大理石で出来た扉の奥は、中央の円形の白いテーブルに揃いのソファー
向かって右はダイニングとキッチン、左はキングサイズのベッドが鎮座する寝室で
バルコニーには備え付けのバスタブとシャワー、石畳みの床を掘って作られた温泉が
白い湯気をもくもくと立てていた。
気を利かせすぎたルームサービスは、トマトソースのスパゲッティやマルゲリータ、チキンに鳩
魚の塩焼きにタコのサラダ、山盛りのパンにチョコレートとフルーツが絡みあうドルチェが
所狭しとダイニングに並んでいて、昼食を済ませたばかりのツナはそれを見ただけで吐き気がした。
何ヶ月も前から予約が必要な超高級ホテルのロイヤルスウィートを
何の事前連絡もなしに占有してしまう彼の横暴さと、財力及び裏社会に対する影響力に、
毎度のことながらツナは眩暈がした。
もちろん――ツナとて彼に匹敵するくらいの超重要人物であったが。
開け放たれた窓から、空の青をそのまま水面に落としたような海を眺めると彼は
「ゆっくりしていきなよ。ここは全部君に貸しきったから」
と言った。自分の行動の強引さは、全く気に留めていないようだった。
おとなしく頷いたもののツナは、どことなく所在無さに辺りを見回した。
いつも自分の周りを離れない忠義心の厚い右腕や、会えば憎まれ口しか叩かない
最強のボディガードがいないと、何だか落ち着かない気分になった。
恐らくは、広くて豪華な贅を尽くした部屋で彼と二人っきり――というのも
胸がざわざわする原因だった。
雲雀さんは――と言いかけ、ツナが窓の外を眺める彼の横顔を見たときだった。
眼を閉じて小波を渡る凪を感じる彼の表情の、恐怖を差し引いて余りあるようなその繊細さに
ツナは言葉を忘れて立ち尽くした。
風に揺れる緑の黒髪の艶、真っ白ながらも血色のいい肌、薄く閉じた唇
切れ長の眼を彩る長い睫――間近で彼を見たことは何度もあったのに
その姿を美しいと感じたのは初めてだった。
息を飲むような美貌とは、まさに彼のことをいうのだろう。
時を忘れたように、沈黙するツナを見やると彼は窓枠から手を離して微笑んだ。
闇よりも深い色の瞳と眼が合い、ツナは頬を赤らめて視線を逸らした。
見とれていることに気づかれるのは――何故だか気恥ずかしかった。
「僕を見てたの?」
口角を上げた彼の問いに、ツナは「そんなんじゃ・・」と頸を振って答えた。
だらりと両脇に垂らした腕が微かに揺れ、ツナの心の動揺を暗示させる。
「僕は十年、君を見てたよ」
公私関係なく自分の生活に踏み込んでくる強引な男の・・余りにロマンティックな台詞に
ツナは思わず頭を上げて彼を仰ぎ見た。
いつのまにか自分の前に立っていた黒髪の男は、微笑みに哀しみを織り交ぜたような表情で
自分を見下ろしている。
二人の関係は十年経った今も、知り合いと言うには親密で、友達というにはスリルに満ちていた。
何時でも何処でも、彼はツナを連れ出して遊びに出かけたし
当初は迷惑そうな顔をしていたツナも、次第に彼の突拍子の無さに慣れていった。
それが不器用な彼の――独特の愛情表現とは知らずに・・
そんなの――と言って、ツナは口ごもった。
攫われて、楽園のような場所で告白されるとは思わなかった。
十年間、神出鬼没な彼に付き合ってきたが、ただ彼は自分を困らせたり巻き込んだりするのが
楽しいのだと――勝手にツナは思っていた。
そしてそれが、表情に見せる程嫌ではないことにツナも気づいていたが、彼は自分の気持ちに蓋をした。
それは開けてしまえば後悔しか残らない――パンドラの箱だった。
「そんなこと・・言われても困ります、俺――」
言いかけて、ツナは自分が泣いていることに気づいた。
いけない、と思った瞬間にも涙はとめど無く溢れ、頬を伝い・・顎を濡らしていく。
二人を結びつけた年月は、悪戯に思いだけを募らせていた――堪えようも無いほどに。
両目を手で擦り、必死に溢れる思いを止めようとするツナを――彼はそっと抱き寄せた。
優しく触れられることは、初めてだった。
いつも冷たい金属を振り回す凶悪な腕は、思いのほか細く・・自分の髪を撫でているのが
彼の指だと気づいた瞬間、ツナは白いシャツに身を寄せ小さく嗚咽を漏らした。
十年ぶりに蓋を開けた箱に入っていたのは、どんなに深い海よりも透き通るような一握りの思いだった。