こうして、僕たちの甘く不器用な恋は始まった。
















「で。なんで僕のところに来るの?」

 呆れた様子で日誌を閉じると彼は振り向き大げさにため息を落とした。

「・・そ、それは・・」

 赤点の答案用紙を持って立ち尽くしている。
放課後の応接室の出来事である。

「――このままだと留年しちゃうから」
「・・それで?」

 君は僕に、進級させてくれって頼みに来たのかい?
 分厚い報告書を開きながら雲雀さんは言った。

「違います」
「じゃあ何」
「――勉強を、教えてもらいたくて」

 雲雀さんは俺を見ると、意外そうな顔をした。

「例の部下は?君の隣にいつもいる――」
「獄寺君はイタリアに帰っていて」
「野球部の彼は?」
「遠征試合です」
「・・赤ん坊は?」
「出張中です」
「じゃあ何、みんないないから僕に縋ろうって?」
「ち、違います」

、握り締めた答案をゆっくりと開いた。
×しるしが並んだ答案の最後に紅いペンで「綱吉へ」と書かれていた。

「追試の日程、書いてくれたの・・雲雀さんですよね」

 それは来週の月曜日だった。進級を決める追試まで一週間。
俺に出来る事は、この字を書いた主を捜し当てる事と
勉強を教えてくれる家庭教師を見つける事だった。
 彼は俺を見やると、呆れたように肩を下ろした。
泣きつく場所を間違えているよ――そう、いいたげな表情で。

「もし――僕だったら?」
「勉強を・・教えて欲しいんです」

 宜しくお願いします、と頭を下げると
――沈黙の後、雲雀さんは席を立った。
彼は俺の手から答案用紙を引っ手繰ると
――それをびりびりに破いて、「誰にも言わないようにね」と言った。

 それが彼の「YES」の返事だった。




「・・君、ほんともの覚え悪いよね」
「すみません・・」

 消え入りたくなりながら、参考書をめくる。
彼の個人授業は学校が終わった後、夕陽が沈むまで続いた。

「――今日はここまで。明日、復習するから」
「ありがとうございます」

 雲雀さんの声に、肩の力が抜ける。参考書を閉じ帰る準備をしていたら
「今日時間ある?」と彼が突然尋ねた。

「・・あ、あります・・けど」
「じゃあ付き合って欲しいんだけど」
「・・は、はい」

 彼はどこへ向かうのだろう。
俺は鞄を肩にかけながら、雲雀さんの後について歩いた。
あんなに怖かった風紀委員長が今とても優しく感じるのはたぶん
――彼の教え方がとても丁寧なおかげだと思う。

「あ、あの・・雲雀さん」
「何?」
「――どこに、行くんですか?」
「着けば分かるよ」

 それに、と雲雀さんは言った。

「遅くなったら家まで送るから」
「・・あ、・・ありがとうございます・・」

 振り返った彼が笑っているように見え
(それは逆光だったせいかもしれないけれど)
俺は何だか気恥ずかしくなって俯いた。

彼に講師を頼むこと自体が捨て身の選択だったし―
こんなにすんなり引き受けてくれるなんて思いもよらなかった。
だから――彼が微笑むように見えたのかもしれない。

 彼の後姿について行くと、道を抜けた先に小さな神社があった。
 並盛神社、と書かれた看板は古くところどころ
染料が取れ、下の木材がむき出しになっていた。

「ここ、学問の神様なんだって」

 雲雀さんについて両手を合わせ、お辞儀をする。
合格祈願なんて――そんな気のきいたこと。
なんだか彼らしくない気がして俺は「ここに来たことあるんですか」と尋ねた。
 時々、と彼は答える。

「今年は特に、進級出来るか分からない危なっかしい生徒がいるからね」
「・・それ」


 もしかして、俺のことですか――と尋ねそうになって一瞬
俺の呼吸が止まった。
振り向いた雲雀さんの眼は吸い込まれるくらい――穏やかに微笑んでいた。

「――帰ろうか」
「・・はい」

 少しだけ前に進んで、雲雀さんの隣を俺は歩いた。
時々彼の横顔をちらりと眺めながら。

――雲雀さん・・何考えているのかな。

 聞けば分かることなのだろうけれど。
俺は、彼に同じ質問をされることが、怖かった。

――君は・・何を、考えているの?

 俺はなんて、答えるのだろう。

始めはただ、勉強を教えてもらいたい一心で。
俺の答案用紙を見た雲雀さんが危機感を募らせて、
追試の日程を教えてくれたのだと思っていた。

――でも、雲雀さんってけっこう・・面倒見いいし。

 意外に思うけれども彼は、優しかった。

――このまま、勉強教えてくれたらいいのな。

 なんて、思いながら二つ並ぶ、影法師をぼんやりと眺めていた。




 追試の前日まで、彼の個人授業は続いた。
それはけして平坦な道のりでは無かったけれど何とか、
俺は及第点レベルの知識を身につけることが出来た(そう自負している)

今日は、放課後の自主勉強の最終日だった。

「・・ここまでやれば十分だろう」
 彼の言葉に頷き、俺は深々と頭を下げた。
 
「ありがとうございます・・」

 雲雀さんは教科書を閉じると、「それだけ?」と言った。
何故か不機嫌そうに唇を尖がらせていた。

「・・雲雀さん?」
「――お礼は無いの?」

雲雀さん、と問いかけて俺は息を飲み込んだ。
彼が俺の髪に触れたからだ。
雲雀さんの右手は髪を撫で、額を横切り、俺の頬に触れた。

「・・雲雀さん・・?」
「君がくれないなら貰うよ」  
そう笑うと彼は、俺の頬をそのまま思い切り――つねった。
痛い、と声を出したかったけれど彼の顔が目の前にあって結局声一つ出せなかった。

 彼の唇は俺のそれを捕まえて――離さなかった。
 所謂キスを、していた。

 唇が離れると雲雀さんはもう一度口の端を上げて笑った。
新しい玩具を見つけた子供の表情。
こんな楽しそうな雲雀さんを見たことは一度もない。

「抵抗しないと押し倒すよ?」
「・・し、失礼します・・!」

 机から鞄をひったくると、俺はばたばたと応接室を
け出し廊下へと飛び出した。
 閉じたドアの前に座り込むと俺は、今彼と何をしたかを
ゆっくりと――思い出していた。 

 触れた唇の温かさ。彼の長い睫と切れ長の黒い瞳。
 額に触れた手。頬をつねる指。おもわず掴んだ制服の肩。

「・・何やってんだ・・俺」

 背中の後のドアを挟んだちょうど向こう側で、
彼が全く同じ台詞を呟いているのに、気づかないまま。