午後六時。ドアをノックする。君が迎える。玄関が閉じた瞬間。
記憶は暗転する。光は無い。














並盛町の切り裂きジャック














「・・おかえりなさい、山本」
「ただいま、ツナ」
 今日はね、ビーフシチュー作ったんだよ、と綱吉は笑う。
山本もつられて微笑み、肩にかけていた鞄を下ろした。
「上手そうな匂いするなー」
「山本が・・食べたいって言ってたから」
「――ありがとな」
 うん・・とはにかんだ綱吉の肩を彼は引き寄せ、傾いた体を
キッチンに押し付けた。
「ちょっ・・山本――シチューが」
「今はツナが食べたいかも」
「――何言って・・!」
 キスをする頃には背中の向こうでビーフシチューが
ぐつぐつと煮立っていて――山本は台所に散乱する
じゃがいもと人参と玉ねぎを思い出すのだ。

 一番忘れてはならないものを残して。




***

 一通りのことが済むと山本は、ときどきこれが夢じゃないかって
おかしなことを言う。
「――眼が覚めたらさ・・これがみんな幻なんじゃないかって」
「どうして――そんなこと言うの?」

分からない。

 高校を卒業してから俺と彼は一緒に暮らしている。
ボンゴレ入りを拒否した俺と、無事地元の企業に就職した山本。
俺たちは2LDKのアパートを借り、ささやかながらも同居生活を
満喫していた。何も無い部屋だったけれど、お腹を空かせて戻って
くる彼に美味しい夕ご飯を食べてもらうことだけが唯一の、俺の幸せ
だった。

 あの時、一本のチャイムにドアを開けなければ。




***

 眼を開く。かすかな異臭。冷蔵庫の奥に閉じ込めた証拠。
炭水化物が腐り、脂肪は溶け、赤茶色の液体は主の帰りを待っているが
彼にはどうしてもその手を握ることが出来ない。
 綱吉は行ってしまったのだ。
 もう二度と、手の届かない・・場所へ。
 山本は台所に散乱した野菜を拾う。じゃがいも、人参、玉ねぎ
――彼の死体。

 それは出迎えるほどゆっくりと腐っていく。今日は右手が無くなった。
明日は左手が爪の皮から腐食していくのだろう。それでも、埋めてやること
も焼いてやることも出来ない。
――俺、狂っちまったのかな・・

 山本は人の形を為さない塊を抱きしめる。むせ返るような
血肉の匂いが唯一、受け入れられない現実の証明でもある。
 帰ったとき彼は死んでいた。
 迎えてくれたのは、こげた野菜と肉の詰まったビーフシチューだった。

 なぁツナ――返事・・してくれよ?

 どんなに器用に隠しても匂いだけは漏れてしまうのでこの部屋には
住めなくなってしまった――けれど。
 それでも山本は午後六時にこの部屋に帰るようにしている。

 その時だけ――ちょうどきっかり六時に玄関をノックした時だけ
彼は綱吉に会うことが出来るのだ。赤いエプロンをつけて、お玉を
持った。肌つやの良い――まだ息をしている彼に。

「・・おかえりなさい、山本・・!」
「ん・・ただいま」

 この一晩が、永遠だったらよかったのに。




***

「――山本・・そろそろ」
 ビーフシチューを食べよう、と言うけれど彼はなかなか
腕を離してくれない。まるで朝が来るのを嫌がっているみたいだ。
「・・ね、山本――」
「なぁ・・ツナ、行くなよ」
「――どこにも行かないよ?」

どうして――そんなことを言うの?

 抱きしめて座り込む俺と彼の後で、煮込んだばかりの
ビーフシチューがこの物語の続きを待っている。

 あの日山本を迎える前に、俺は死んだ。
行きずりの犯行だった。
 犯人はドアを開けるなり俺を刺した。
助けを呼ぶ間も無かった。

 俺は彼を、置いて行ってしまった。

 眼を閉じると俺は、その日の夜に舞い戻る。
テレビ番組のお料理選手権を見ていて、ビーフシチューが
食べたい、と言った彼。じゃあ牛肉買ってこないとね、・・と
言って席を立った俺。幸せだった・・それまでは。

 それから何度彼を迎えても俺は、ビーフシチューに
行き着くことが出来ない。二人で同じビデオを繰り返し
見ているようだ。山本が帰ってくる。俺はドアを開けて

――自分の腹から沸き立つ血の色を見る。




***

「最近OO区では一人暮らしの若者を狙った犯行が相次ぎ――」
 ニュースキャスターは異口同音にトップニュースを伝えている。
「現在のところ辻斬り犯の意図は不明ですが、狙われているのは
一様に若い男性のようです」
「――たしか・・この前の強盗犯のモンタージュも、こんな若い
男でしたね」
 キャスターの隣に座っていた学者が、眼鏡の位置を直しながら
補足する。
――あくまでも、とキャスターは続ける。
「今回の辻斬り騒動と、先週の強盗事件との関連は不明ですが・・」
「しかし、どんな刃物でも人間を二つに切り裂くことは困難だと思います。
――せめて、日本刀でも使わない限りは」
「まさしく――現代の辻斬りですね」
 ニュースはここで、地域に住む少年のインタビューに移る。
不安そうな声が続く中、野球のバットを肩にかけた青年だけが
笑顔でインタビューに答えていた。
「この前の強盗の犯人も若い男だって言うし・・辻斬りなんて
ほんと怖いっすよ。だからまぁ・・こうしてバット持ち歩いて
るんですけど・・早く――犯人が捕まると、いいっすね!」