「ツナは・・告白しないんだ?」

 ピーマンの種を取りながら今日の出来事を話すと
ディーノさんは頬杖を付いてそう言った。

「来週の月曜日だって?彼女が出発するの」

今日のご飯は焼きそばだった。不器用な俺でも一人暮らしを
一年続けると、その日食べるご飯くらいはつくれるように
なっていた。

「・・しませんよ」
 俺はそう答えるだけに留めて、ピーマンの種を三角コーナーに
捨てた。かさはあるのに余分なもの取ると、皮しか残らない。
真っ白なまな板にならぶ緑色の厚い皮は、まるで自分自身のよう
だった。

――輪郭はあるのに、中身が空。

 ふーん、と言ってディーノさんは頭の後で腕を組んだ。
俺の答えに納得していないだろうけれど、それ以上は深入りしない。
俺は火にかけたフライパンにピーマンを放り込んだ。

「・・したとしても、結果は見えてますし」
 そう言って俺はしゃがむと、ディーノさんの隣に膝を
畳んで座った。正確には、台所の棚と、ディーノさんの間に
腰を下ろした。ディーノさんはちょっと右側にずれてくれたけど
もともと彼は透けているから、俺は難なく二つの間に座り込む
ことができた。
 ひんやりとしたフローリングに座ると、いつも見ている部屋の
景色がなんだか別の世界のように思えた。天井は広々と高く
カーテンから染み込む太陽の光が眩しい。
座る場所をかえるだけで、こんなにも世界が変わるんだ
――俺は揺れる電灯を見上げて、大きく息を吸って・・
言葉と一緒に吐き出した。
 彼が見ている景色と同じ世界を眺めたら、少しだけ素直になれた。

「・・振られるのが、怖いんです」

 俺がぽつりと言うと、ディーノさんがこちらを向いた気配がした。
 誰にダメツナって言われても構わないけれど、
京子ちゃんの前で――俺が本当に、尊敬して感謝して
ひっそり恋心を抱いていた・・女神のような人物の前で
醜態を晒すのが嫌だった。彼女の前で、これ以上ダメツナに
なるくらいなら――このままで、良かったんだ。

ツナの好きな子はさ、とディーノさんは言った。

「一生懸命なお前を、笑うような子なのかな」

 俺ははっとしてディーノさんを見た。
 ディーノさんも、俺を見ていた。

 海のように澄んだ青い瞳。穏やかな微笑を
たたえたそれは、俺のみにくい心の裏側まで
綺麗に洗い流してくれるようだった。

「・・そんなこと、ないと・・思います」

 そういいながら涙が、溢れた。




 翌日俺は、京子ちゃんが所属している茶道部の部室を
ふらりと覗いた。中にはおしゃれな格好をした(その一部は
何かの雑誌から抜け出したような容姿の)女子学生が
何人か話していて、突然の訪問者をそろって凝視した。
話しかけられたわけでもないのに、おもわず後ずさりしそうになる。
「あ・・あの、笹川さんは」

「駄目ツナじゃん、どうしたの?」
 背後からの声に振り向くと、黒川が珍しそうな顔で立っていた。
彼女は京子ちゃんの小学からの親友で、俺と彼女の関係を知る数少ない
人物の一人だった。
「京子ちゃん、知らない?」
 彼女になら俺も臆することなく話しかけることが出来る。
「あんたが探しに来るなんて珍しいね」
 やっと告る気にでもなった?といわれて首を振る。
「・・ちゃんと、お別れ言おうと思って」
 へぇ、と黒川は目を細めた。腕を組んだその立ち姿には
どこか同い年には見えない迫力がある。
「・・なんか、あんた変わったね」
「そう?」
 黒川が俺を褒めるなんて生まれて初めてだ。
思わず、身を乗り出して尋ねてしまった。

「今なら、京子も喜ぶんじゃない?」

――今なら?

 彼女は謎めいた言葉を残して身を翻した。
「京子なら、剣道場だよ。勘だけど」
「・・ありがとう」

 そう言うと、黒川は背中を向けて手を振った。
 何人か、彼女のファンらしい下級生が両手に差し入れを
抱え、黒髪の後姿を追いかけていった。




「・・京子ちゃん」
 ――は、彼女の勘通り(黒川の勘は驚くほどよく
当たる)剣道場に居た。その向かいには例の彼氏が
胴着を着たまま――立っていた。
 声をかけてから俺はその場の雰囲気に気づいた。
二人はどこか、気まずそうだった。

「・・持田先輩」
 インターハイ三連覇、国体選手にも選ばれたという並盛大学
の誉、持田先輩は京子ちゃんの――彼だった。

 京子ちゃんの表情は暗く、先輩はどこか怒っているように
見えた。俺は咄嗟に「ご、ごめんね。ゼミの件で先生が」
と適当に言い訳をした。悪い癖が出たのだ。
 肝心なときに自分の言葉で伝えられない。

「レポートの締め切り、今週中だって」
 じゃあ、と言って二人に背中を向けると、俺はそのまま
駆け出そうとした。
 その時だった。

「・・沢田。ちょっと待ってくれないか」
 そう俺を呼び止めたのは、眉間に皺を寄せたままの
持田先輩だった。

「あ、・・は、はい」
 くるりと回れ右をする。自分でもどうしてこんなに
ぎくしゃくしてしまうのか分からない。二人はつきあって
いるんだ。うまく行かない時だってあるだろう。こんな風に――

「もう京子に付きまとうのはやめてくれないか?」

 頭を、鈍器で思い切り殴られたような衝撃を受けた。

「・・・」
「持田君待ってよ、ツナ君は」
 京子ちゃんの慌てた声が彼の、二言目を遮る。

「お前も沢田を甘やかしすぎなんだ」
 先輩はぴしゃりと言い放った。俺は声が出なかった。

 先輩の言うとおりだった。

 怖かったのは、振られることじゃない。
 振られてみっともない姿を自分で、自分に
見せ付けてしまうこと。
 自分に失望し、裏切られることが何より怖かった。  

 落胆するくらいなら、ダメツナでよかったんだ。

 京子ちゃんは、こんな俺に優しかった。
 勉強もスポーツも駄目、友達だっていない、
こんな俺にいくらでも手を差し伸べてくれた。
 だから俺は甘えていた。

 甘えて、縋って、依存して。
 それでも「好き」だと、思っていた。
 何もしない自分に、見て見ぬ振りをしながら。

 こんな俺に告白されて、京子ちゃんがどう思うか
想像がつかないほど、俺は馬鹿では・・なかったらしい。

 俺は二人の前で丁寧に一礼した。
 そのまま、頭を上げることは出来なかった。

 声も出せないほど、涙が零れていた。






 台所はいつもより冷たかった。俺はフローリングに腰を
下ろすと、膝の上に両腕を置いて声も殺さずわんわん泣いた。
隣の部屋に響いたってよかった。
 ひとしきり泣いて、泣き止んでから俺は、自分が誰かを
期待していたことに気づいて――また泣きたくなった。

――京子ちゃんが駄目ならディーノさん、か・・

 幽霊にさえ縋りたい自分が情けなくて、その夜は
冷蔵庫の隣で一夜を過ごした。一睡もすることが出来なかった。


 その日から彼――ディーノさんは消えた。俺がグラタンを
作っているときも、ビーフシチューを作っているときも彼の
「上手そうだな」の声は聞こえなかった。
 初めから俺ひとりなのに、キッチンが広くなったように
感じて俺は、ばたばたと狭い台所を一周しては――
どこかで彼が俺に、気づいてくれないか

 俺の声を聞いてくれないだろうか。
 そう、祈っていた。



 ディーノさんが現れなくなって、一週間後の月曜日だった。
いつも通り大学へ向かう俺の目の前に、大きな黒いバイクが
止まった。全身黒ずくめのライダーに俺は、見覚えがあった。
以前不良に絡まれたときに、助けてくれた人物だった。

「雲雀さん・・」
「何呆けてるの」
 彼は俺にヘルメットを渡した。二人乗りを取り締まる風紀委員が
自ら綱紀を侵していいのか――そんな思いが脳裏をよぎる。

「彼女の出発、今日なんでしょう」
「・・・」

 雲雀さんはいらいらした様子でエンジンをかけなおした。
闘牛がいたらこんな地響きを立てるんじゃないだろうか。

「乗るの、それとも――噛み殺されたい?」
「・・お願いします!」

 バイクに跨った瞬間、雲雀さんが――笑った、ような
気がした。


 空港は天気予報を軒並み外して晴天だった。
飛行機が発着する音、観光客の話し声、流暢な英語のアナウンス
ありとあらゆる騒音が混じり、溶け合いながらまだ見ぬ
地へ馳せる思いを掻き立てていく。
 初めて訪れた国際線のロビーは灰色の空間に吹き抜けの
天井が映え、側壁のステンドグラスは光を反射して一枚
の肖像画のように美しかった。
 そのマリア様の足元に俺は、『彼女』を見つけた。
 俺の拠り所でもあり、神様。
 それは愛よりは幼くて、でも確かに恋だった。
 どんなに俺がダメツナでも。
 大切な俺の、初恋だった。

「・・ツナ君」
 京子ちゃんは俺を見つけると、留学生の一団から
離れて俺に手を振った。
 俺も手を、振り返した。
 これ以上、近づくつもりは無かった。

「・・もう、大丈夫だよ。ありがとう」

 俺はこのまま。
 駄目ツナのままで、生きていける。
 だから。

「いってらっしゃい」
 そう叫ぶと、京子ちゃんが笑顔に変わった。

『いってきます』

 返事は、聞き取れなかった。でも、彼女はそう呼んで
くれたと信じている。手を振り終わるまで、微笑んで
いたから。





「・・すいません。本当に、ありがとうございました」
 空港を出ると、バイクの傍に居た雲雀さんにすぐ
礼を言った。彼が高速を飛ばしてくれなかったらここまで
たどり着けなかったのだ。
 お辞儀をした俺に彼は「告白しなかったの」と言った。
 口に出さずとも読まれてしまうものらしい。
「・・はい」
 俺は、素直に返事をした。
 心は、見上げる空よりもっと晴れていた。  

「今度はちゃんと言います。彼女が、帰ってきたら」

 雲雀さんはバイクにまたがるとエンジンをかけ直した。
俺もヘルメットを被った。

「昨日・・彼が出てきてね」
「え?」
 雲雀さんは俺の方を見た。ヘルメットをかぶっているから
その表情は読めない。

「君のところにいた幽霊」
「・・ディーノさんが?」
 思わず声が上ずる。
「君をよろしくって言ってた」
「・・うそ」
「嘘だよ」
「ひ、雲雀さん!?」
 俺はバイクにまたがった。断続的な振動音に体を
委ねる。ほどなくしてバイクは動き出した。緩やかに
カーブを曲がり、滑走路へ向かう。


「ねぇ、雲雀さん」
 なんとなく気になって俺は叫んだ。雲雀さんはいつ、どこで
京子ちゃんの出発する日を知ったんだろう。大学へは一度も
行っていないはずなのに。
 もしかして本当に・・ディーノさんに会ったのかな。
 そんなことを考えていたら、急にバイクが止まった。

 俺はバイクから降りた。柵の向こうでは今まさに
飛び立とうとする旅客機が、機体を宙に浮かせ風に
乗ろうとしていた。轟音と振動が大空を奮い立たせる。

 ジェット機に向かって手を振ると、後で見ていた雲雀さんが言った。

「・・勉強なら、僕が教えてあげてもいいよ」

 ありがとうございます、と言うと雲雀さんはぷい、と横を向いて
バイクにまたがった。

 未来が、まだ描いたこともない滑走路の先に広がっていた。





FIN