キッチン





 彼に出会ったのは台所で、人参を切っているときだった
と思う。滑って、手の中から転げ落ちた橙色の切り株を
追いかけた俺は、そのとき初めて自分の足元に人間が座っている
ということに気づいた。


 正確に言えばそれは人間ではなくて、幽霊・・実態のない
魂みたいなものだった。俺の部屋の台所の片隅で、膝を折り
畳んで座る長身の男性の名前は、ディーノさん、と言った。


 ディーノさんについて、俺が知っていることは皆無に
近い。俺が彼から聞いたのは、彼がイタリア人だと言うことと
気がついたら俺の部屋の台所に居た、ということだけだった。
理由はよくは知らない。彼自身も、俺がせわしなく動く台所に
いることにさほど疑問を感じていないようだった。


「ディーノさんて、どこから来たんですか?」


 あるとき俺が尋ねると、彼は頬杖をついて「さぁな」と
言った。あまり気にかけてはいない表情だった。


 自分が何処から来て、何者で、なんのために此処に
いるのか。ディーノさんには理由も、過去もない。ただ
彼は、ある日突然俺の台所の床に座り込んでいたのだ。
まるで初めからそこにいたような顔をして。


「ツナはさー・・俺が怖くないのか?」


 そう彼に聞かれたのは出会ってすぐのこと。
俺は何て答えたのだろう。「別に」とか「気にしません」とか
そんな答えだったと思う。恐い、のなら俺はすぐにでもこの
アパートを引き払おうとしただろうし、お払いだってお願いした
かもしれない。でも、彼が現れた夜俺はきちんと電気を消して
布団に入った。


 彼に恐怖を感じたことは一度もないし、これから先も
ないだろう。彼は、映画で見るようなとても綺麗な顔をしていたし
海よりも深い綺麗な眼をしていた。
 何より彼は自然に、まるでそこにいることが当然のように
台所の隅の床の上、に膝を立てて座っていた。彼はそこから動くこと
――立ち上がることさえ出来なかった。
 彼は、俺が台所に立つときまって定位置に現れ、俺が
そこから立ち去るとふいに消えていた。


 どうして台所なのか、なぜ俺の部屋なのかなんて
俺もあまり気に留めなかった。
 突然現れた、影のない居候――ディーノさんは、夏の宵が
俺に見せた幻だったのかもしれなかった。




(続く)