「 還る場所 」




 白んだ空を仰いで息を吐くと、彼は憂いを含んだ瞳を閉じて
執務室の扉を開けた。
 いつも自分のいうことなど全然聞かない栗色の髪が、ベッド
ですやすやと寝息を立てている様子を見つけて、僅かに苦笑する。  


 3年前彼をイタリアに呼んで、膝まずいて忠誠を誓った夜も
震える両手に触れた初めて奇跡のような一夜も確か――こんな
明らんだ東の空をひとりで眺めていたのではないか。
 珍しく感傷的な自分に、ついに焼きが回ったか?と自問自答
しながら、彼はツナの顔にかかっていた薄い上布団を
起こさないようにそっと捲くった。
 会うたび我儘を言い、分かっていながら自分を困らせる
子供のようなボスの・・ 閉じた睫の影に僅かに涙の跡がある。
 その柔らかな頬に――思わず触れようとしてリボーンは
呼吸を止めた。


 一瞬だけ、自分の身分も立場も――彼は忘れた。
二人きりでいられる、ほんのひと時だけ彼らはごく普通の
――恋人同士に、戻るのだ。少なくとも、リボーンにとっては。


らしくねぇな、と彼はひとりごちてから行き場の無い腕を
しまった。寝顔を撫でるなんて・・立場を考えればとんでもない
ことだった。目の前にいるのは――たとえひよっこでも、唯一無二の
たったひとりのボスだ。彼の細い両肩にはボンゴレ構成員10万の命と
同盟マフィアの未来――イタリアの裏社会の行く末が掛かっている。
 本人が認識している以上に彼は・・ボンゴレにとってもマフィア社会に
とっても、大事な存在だった。


 本来ならボスと所属するヒットマンが同じ部屋で寝ることさえ由々しき
状態だった。それでもツナは、10代目の座についた時からずっと彼を
自室に招き日々を共に過ごしてきた。それは彼に対する信頼の現れでも
あったし、いまだ家庭教師離れが出来ない未熟さの裏返しでもあった。


――自分はいつまでここにいられるのだろう?


 そんなことをふと考えると、彼の漆黒の瞳がほんの少し
細くなった。この職に就いて命が惜しいと思ったのは一度だけ
――ツナが泣いて己の任務延長を請いたときだった。
 もともと彼の家庭教師は、生前の9代目の誼で引き受けた
依頼だった。
ツナを10代目に仕立て上げ、無事イタリアに連れて行けば
終了する仕事だったのだ。


 就任式の後、ボスの部屋を去ろうとした彼の腕を、必死で掴んだのは
生まれたばかりのボスの震える右手だった。撃ち殺されるのを
覚悟した茶色の瞳から零れる大粒の涙に・・心を殺す術を覚えた
リボーンさえ、動揺した。




『――お願いだから・・ずっとそばにいてよ・・』




 期限も期間も、報酬もはっきりしない無茶な依頼を彼は
何もいわずに承諾した。ひとり立ちもできない馬鹿弟子の
我儘に飽きるまで、付き合ってやる・・最初はそんな気持ち
だった。


 それから、出来損ないのボスはそれなりに場数を踏み
最低限の身の守り方や、一通りの演技を覚えてきた。
おびただしい血の匂いや、火薬の煙が立ち込める取引に
一人で向かった日もあった。日本にいた時を思えば彼は
――不十分な点も多いが彼は各段に成長した。


気がつくと、離れられなくなっている己が・・そこにいた。


 引き止めたのはどっちだったか。向けた背中が望んだのは
さよならではなく――


 彼は思考の先に苦笑すると、するするとツナの隣に
身を滑り込ませて身体を横たえた。普段なら絶対に
添い寝なんてしないのだが・・濡れたまつげの揺れる頬を
なぜだかずっと、眺めていたい気持ちに駆られた。


 ヒットマンとして生きることを決意して10年・・それは
とうに手放したはずの、心を灯す祈りのような気持ち
だった。


――たとえいつかこの身を投げ出す日が来たとしても俺は。


 その対象が目の前の愛しい人でも、もっと違う別の誰かでも。
この命が尽きるまで俺は。


 お前が恋しいだろう。今も、これから先も・・ずっと。