「ツー君よかったわね、栄転なんて・・!」


ママ、嬉しいわと言う奈々にツナは曖昧に頷いた。
勤めていた会社が、外資系の企業に合併されたと聞いた時は
クビを覚悟したが、予想に反し彼は本社勤務を言い渡された。
特別目立った業績はないが、実直な働きが評価されての栄転だった。

「・・本社、行ってくるね」

 腑に落ちない表情のままツナは一張羅のスーツに奮発して
買ったネクタイを締めて自宅を出た。
以前勤めていた会社から移る時にあてがわれた社宅は
奈々と二人暮らしでなら十分な広さだった。 


 幼くして父をなくしたツナは、わずかな収入をやりくりして
自分を育ててくれた母親に感謝していた。
初めて社宅に移ったときの母親の笑顔を思い出し、ツナは息を
吐いて張りつめた肩を下ろした。ようやく恩返しができる。
そう思うと緊張が緩んだ。
こころのなかは見上げた雲ひとつない空のように、晴れ渡っていた。

これは神様がくれた幸運なのだ、とツナは思った。

もともと逆境には強いのだ。母親が勤めていたスーパーが
閉店した時は、その後開店したコンビニで働くことができた。
さらに時給は先の仕事よりもよかった。
学費が支払えなくなった時も、特例で奨学生に認められ
無事大学を卒業することができた。

綱渡りではあったが、何とかここまで二人で暮らすことが
できたのだ。栄転に不満などあるはずがない。
今日は母親の好きなケーキを手土産に買って帰ろう、とツナは
深呼吸をした。ようやくパートをやめることができた母に
楽をさせてあげられることが嬉しかった。

 ツナが本社の玄関をくぐると、受付の女性が笑顔で近づいてきた。

「沢田綱吉さんですね・・会長がお待ちです」
「え?」
――会長が?

 ツナの血の気が引いた。挨拶と仕事の説明のはずが
いきなり呼び出しとは。本社勤務が撤回とならないかと思うと
心臓がどくどくと跳ね上がった。

「失礼します」

ツナはドアをノックした。ビルの最上階が会長室だったが
木製の扉を開くと部屋の奥は一面ガラス張りで、その向こうには
オフィスビルが立ち並んでいた。そのほとんどを見下ろす、壮大な景色だった。

「――君が沢田綱吉君かね?」
「・・はい」

 初老の男に話しかけられてツナは振り返った。
黒いスーツに銀のネクタイをした品のよい男が笑顔で立っている。
男はこの会社の会長と名乗り、ツナと握手をした。
その穏やかな表情に、ツナの鼓動も幾分か落ち着きを取り戻した。
今日は大事な取引先との契約があって君をここに呼んだ、と彼は言う。

「かねてから業務提携を打診していて、ようやく許可が下りたんだ。
君のおかげだよ」
「・・は、はい」

 会長の笑顔に、ツナは汗をかきながら頷いた。
誰かと間違えているのではないか、とツナは思った。
今日会社に出勤したばかりの自分だ、何の契約も果たせていない。




 ツナが生唾を飲んだ時、二人の後ろのドアが音もなく開いた。
入ってきた男の顔を見るなり、ツナの表情は強張った。
非常に馴染みの深い顔だった。

「お久しぶりです。十代目」
「獄寺君・・」

 ツナの返事に獄寺は嬉しそうに微笑んだ。
「覚えておいででしたか、光栄です」
――忘れるわけがない。その声、銀の髪、蒼い瞳。
すべて覚えている。紛れもなく彼はかつて机を並べて学んだ
クラスメイトだった。

「どうして・・なんで・・」
――こんなところにいるの?

 獄寺が恭しく一礼をすると、会長は無言で部屋を後にした。
微笑を浮かべた彼と、絶句したままのツナが残る。

「・・お変わりなくて俺も嬉しいです」

整った顔立ちに極上の微笑を乗せ、獄寺は彼に近づいた。
ツナは後ずさりをしたが、すぐ壁にぶつかって逃げ場がなくなった。
迫るのは――すらりと伸びた長身で、ぴったりとしたスーツを着崩し
両の指には銀の輪がいくつか並んだ、十年前の旧友・・なのに
息ができないくらい、怖い。ツナの両足はがくがくと震えた。
見かねた獄寺はそっと彼の両肩に手を乗せた。
震えが腕を通して伝わるようだ

「・・申し訳ありません。貴方を驚かせるつもりはなかったのですが」
「や・・やだ、離して・・俺を、帰してよ」
「――それはできません」

 獄寺がぴしゃりと言ったのでツナは肩を竦めた。
その怯えた目に獄寺は苦笑して訂正する。


「・・すいません、言葉が過ぎましたね。それはいたしかねます、十代目」
 丁寧語でも、意味は同じだ。

「何で・・どうして・・」 

 君は関係ない、と言いたいが唇が震えて言葉が続かない。
顔面を蒼白させたツナを見つめると、獄寺は肩にかけていた
手を彼の腰に回した。
見かけよりも強い力で彼を抱き上げると、獄寺はゆうゆうと
ツナを持ち上げ、隣の部屋に向かった。

「・・や、やだ。下ろして・・っ」

抵抗するものの、彼の力では獄寺から下りることも
その動きを止めることもできない。じたばたするツナを
キングサイズのベッドの中央に下ろすと、獄寺はジャケットを脱いで
ネクタイの首元を緩めた。

その一連の動作に、先を想像したツナの血の気が引く。
唇はすでに色を失っていた。

「・・平穏な生活は、楽しめましたか?」

 獄寺の言葉にツナは息を止めた。それは確かに十年前
彼に対して誓ったことだった。普通に、平凡な人間として
穏やかな日々を送りたい。だからボスにはならないと言った。
彼は頷いたのだ。それを何故今になって――

 ひとつの想像に、ツナの瞬きが止まった。
波乱はあっても穏やかで、余剰はなくても満たされた暮らしだった
――その平和な日々がすべて彼の手の上で、踊らされたダンスだったとしたら?

「獄寺君、もしかして・・」

けっこう大変だったんですよ、と獄寺は微笑んだ。

「企業を潰したり、教育委員会を操作したり・・あまり
日本にはコネクションがないものですから」

 でも、十代目の学業もお母様のお仕事もうまくいきましたでしょう、と
彼は満足そうに続けた。
だから、今度は俺のために動いてくださいね、と念を押して。

「・・全部、君だったの?」

 震えるツナの声が真実を指すと、獄寺は勿論です、と頷いた。
彼を見つめる瞳は穏やかで優しいがどこか――正気でないものに満ちている。

「今日というこの日をずっと・・待ちわびておりました」

 ベッドのパイプがわずかに軋む。獄寺が上ったからだ。
悲鳴を上げようにもツナの声は出ない。
恐怖と衝撃で五感が支配され、逃げることも逆らうこともできないのだ。

操り人形の糸は切れ、持ち主の元に戻る。
二人が生きてきた世界の神とでもいうべき存在に。

彼はツナに覆いかぶさると、その震える唇にキスをした。
血色は悪いが温かい。反応のない彼の唇を押し割ると
獄寺は舌を入れ内部をかき回した――十年前無理矢理、そうしたように。

「迎えが来るまで・・楽しみましょう、十代目」

 悪魔の調教はまだ、幕を開けたばかりだった。





『 開演 』