その、どこまでも乾いた蒼





――また、やっちまったな・・
 血の滲んだ拳を下ろして息を吐く。
 見上げた路地裏の狭い空はどこまでも、青かった。





cielo di un vicolo posteriore





「お疲れさん。占めて――百二十だね」
 飲み屋のマスターから礼金を受け取ると、男は
「割高じゃねぇか」と言った。酒が不味い、と文句を言った
客を店から追い出し締め上げ――そういう輩は大概麻薬を
手にしているので、見つけ次第通報、警察に引渡し――
そんなことを一ヶ月もやっていれば、「厄介払い料」の相場も見えてくるものだが。

「あんたは特別だよ――元、軍人だろ?」
 マスターの声に男の右眉が上がった。
「先行投資って奴さ――軍に戻ったらお偉いさんを沢山・・」
「――生憎だが」
 金髪に碧眼、茶色のつなぎを着た男はそう言って遮る。
「期待をかけない方が無難だ」
 朽ちかけたドアが閉まる頃には、辺りは朱を広げたような夕焼け色に染まっていた。 




「お兄さんどうですか、安いよ・・!」
 ミラノの路地裏は客引きで賑わっていた。
大通りを一筋中に入ればそこはネオンが眩しい
娼館街――となる。大概の娼館は字のごとく女が控えているが、
稀に男・・学校へ通うような子供が相手をする店もあり、
そういった特殊な店はマフィアが絡んでいる、と彼は軍人時代に教わった。

――迂闊に手を出すな、ということだ。

 元々この街に用があるわけではない。寝床への最短距離がこの路地裏なのだ――
「俺は客じゃねぇぜ、コラ」
男が客引きに捕まった腕を振り払い、往来を横切ろうとした、その時だった。

「・・掴まえろ!」
 野太い男の声が響き、続いて地面を揺らすような音。
 四、五人はいるだろうか。黒いスーツを着込んだ屈強な男たち。
彼らは金髪の男をぐるりと取り囲むと。
「よう兄ちゃん」と低い声で凄んだ。
「さっきここを若い男が通らなかったか?知らんぷりは怪我するぜ?」
「――知らねぇなぁ、コラ」
 首を傾げた男の肩に、取り囲んでいた男が手をかけた時――

「怪我するって言ってんだ・・ろ・・?」
言いかけた男の身体は軽々と宙を飛び、地面に叩きつけられた。
低いうめき声が巨躯から漏れ、胃液と唾液の混ざった泡が口から溢れる。
「野郎・・!」
「知らねぇって言ってんだ、コラ」
 金髪の男の殺気に怯んだのは周りの屈強な男達の方だった。
彼らは一歩ずつ下がりながら「覚えておけ」と口々に叫んで往来に消えて行った。
地面に転がる男の意識はすでに無かった。
「ったく・・何なんだよ・・」
 男は頭をかきながら振り向くと、真後ろの路地の影に向かって一言
「終わったぜ、コラ」と言った。




 影から出てきたのは、一見女性と見間違うばかりの
容姿の美しく、痩せこけた少年だった。
 彼は男たちが消えたのを確認すると花が綻ぶように微笑み
「ありがとうございます」と頭を下げた。
 その美しい栗色の髪が夕陽に光る様を見ながら男は
「俺は客じゃねぇからな」と――呟いた。




少年の名前は「ツナ」、と言った。
俺、二十七番なんです、彼は首にかけた銀の札を
男に見せると「安直な名前でしょう」と笑った。
「物心ついたときから店に――」
「おい、コラ」
 誰が家に上がっていいと言った、そんな目で少年を
見下ろしながら「俺は客じゃねぇからな」と念を押す。
 年端もいかない男娼を自宅に連れ込んだと知れたら――同期に何と揶揄されるか。
「知ってます」
 そういうのは匂いで分かるんです、と少年は言う。
「じゃあ、なんでここにいるんだ?」
「――お礼をさせて欲しいんです」
「・・は?」
「あの時、俺を・・助けてくれたでしょう?」
――確かに結果から言うとそういうことになる。
 自分に声をかけた少年――がまさか、強面の男達から
追いかけられているとは思いもよらなかったのだ。

 彼はすぐに「他を当たれ」と突っぱねた――
じゃあ、と少年は微笑んだのだ。
「この後誰に尋ねられても、俺の事は忘れてください」

 その意味するところはすぐには分からなかったが、
直後に複数の疾走する音で気づいたのだ――この少年は訳有りだ、と。
 そして思わず――自分に触れた男を地面に叩きつけてしまった。
軍にいた頃から仕込まれた癖なのだ。
 市井に戻ってもそうそう消えるものではない。
「お前を助けたわけじゃない」
 少年は悲しそうな眼で彼を見た。
今にも泣き出しそうな顔をされると無骨な男の良心が揺らぐ。
 彼は恐らく店から逃げてきたのだろう――自分が跳ね飛ばした男は店の用心棒かもしれない。

――厄介だな。

 と男は思った。彼を匿うのも面倒だが、
既に店の男を失神させた自身も、闇社会に喧嘩を売ったようなものだ。
 これからはあの道を歩くのは避けた方がいいだろう。
 男は先刻穏便に、男達を振り切れなかった己の不器用さを悔いた。
冷静さの欠片も持ち合わせていたならきっと、三ヶ月前のあの日も
――軍を離れなければならないような――失態は冒さなかったはずだ。
「だから――お願いです。お礼・・させて下さい」

 懇願する少年に男は一言「勝手にしろ」と言った。
――知るか、コラ。
 ぷい、と横を向いた男に、少年は何度も礼を言った。
――ほとぼりが冷めるまでだ・・そしたらこいつを
置く義理はない。
 彼はそう、心に誓っていた。
 男の名前はコロネロ、と言った。





「コロネロさん」と少年は彼を呼んだ。
どこかリズミカルに、歌うような調子で。
「おはようございます、コロネロさん」
「・・おはよう・・おい」
 起き上がりながらコロネロは、「コラ」と言った。
教官でいた頃からの口癖は第一線を引いた後も変わらない。
「何やってんだ」
 ツナは洗い終わったフライパンを布巾で丁寧に拭きながら微笑む。
彼が寝ている間に、調理を終えたらしい。

「朝ご飯です」
「――見れば分かる・・」
「コロネロさんの口に、合うでしょうか?」
 合うも何も。真っ白なエプロンを身につけた美しい少年に
微笑まれて突き放せるほど彼も――鬼ではない。
軍にいた頃は有名な、鬼教官だったが。
 少年は作りたてのスクランブルエッグを
テーブルに並べ、「食べませんか?」と言った。
 狐色のトーストにジャムを塗りたくりながら
コロネロは――少年を家にあげたことを心底、後悔していた。
――高々料理が出来るくらいで・・
 少年がこしらえたコーンポタージュスープを一口。

「・・・上手いな、コラ」

 コロネロの向かいで、少年が満足そうに微笑んでいる。
 その傷だらけの細い腕が視野に入った瞬間――
彼は何かが心臓に突き刺さるような衝撃を覚えた。
少年の腕には鞭で打たれたような跡がいくつも付いていた。
跡が残るほどの折檻――巷ではそれを・・
「紅茶も淹れますね」
 席を立つと少年は振り向いて
「コロネロさん、熱いの平気ですか?」と尋ねた。
「・・温めに頼む」
 猫舌と告げるのが恥ずかしくて下を向くと
「よかった。俺も熱いの、飲めないんです」
ぱたぱたとスリッパの音を立てながらツナが、
笑顔でティーポットを抱えて戻ってきた。




 コロネロはツナを追い出さなかった。
表向きはしぶしぶ――裏では内心喜んでいた。
無骨な気質の彼は料理が――壊滅的に下手だったのだ。

――ひさしぶりにまともな物が食べられる・・

 毎朝軍で食堂の定食をかき込んでいた彼にとっては、
ツナの作るご飯は天からの施しのようなものだった。




「・・コロネロさん、じっとしてて貰えますか?」
 次の日ツナは、真剣な目でコロネロにそう尋ねた。
「お、おい・・何する気だ・・コラ」
「お願いです・・俺にはこうするくらいしか」
「・・ちょっと待て・・コラ!」



 別の事態を想像して真っ赤になったコロネロの手を取ると、
ツナは包帯を丁寧に解き、手の傷にぞっと、薬を塗り込んだ。
 ぎゃーっ、と思い切り声を上げたかったコロネロだが。

――叫んでたまるか、コラ!

 必死に唇を噛み締める彼にツナは、感心して
「軍人さんって強いんですね・・!」

 これくらい、なんともねぇぜ、コラ!

――コロネロは内心そう叫びながら、ただ首を縦に振るしかなかった。




 ある日コロネロが帰宅すると――浴室から鼻歌と、
水の流れる音が響いていた。気を利かせたツナがお湯を張ってくれたらしい。
「おかえりなさい、コロネロさん。お湯、沸きましたよ」
「わざわざ悪いな・・」
 コロネロがジャケットを脱ぐと、目の前でツナも
服を脱ぎだし――彼は仰天した。
「お、おい待て!」
――客じゃねぇぞ、俺は!
 赤面するコロネロを見やるとツナは
「入りましょう、コロネロさん」
笑顔で彼の背中を押し、浴室のドアを開ける。


――お、おいおい俺にはそんな趣味・・ねぇぞ、コラ!


「・・コロネロさん、痒いところありませんか?」
「別にねぇぞ、コラ」
――髪洗うなら先にそう言え・・コラ!


 バスタブに沈みながらコロネロはぶつぶつと文句を言った。
両手を怪我している彼を心配して、ツナは洗髪を買って出たのだ。

――べ、別に俺は勘違いなんてしてないからな・・!

 自分自身に弁解する愚かさにコロネロは気づかない。

――そもそもあいつが置いてくれって言ったんだ・・俺からは別に・・

 しかし、日雇いの仕事を終え、帰路に着くコロネロの足取りは軽い。
ツナの料理が楽しみで――自分を迎える笑顔に会いたくて仕方ないこと、それは事実だった。
バスタブから両手を出すと、コロネロは手の平を握ったり開いたりした。

 この手の傷はあの時――彼を助けたときについたものではない。けれど。

―この傷が消えなかったら・・そばに居て・・くれるか?

 そう尋ねてしまいそうな己がいて、コロネロは身体の芯が酸っぱくなった。
 誰かの傍にいたいと願ったのは――軍を出て、初めてのことだ。

――らしくねぇな、コラ。


「――コロネロさん?」
「な、何だ、コラ」

 尋ねられて声が上ずる――髪を撫でる指の動きが優しいから
――このままずっと洗われていたい、なんて願っていたのは勿論内緒だ。

「・・俺・・明後日ここを出ます・・」
「・・・」

 返す言葉が無かった。元々ツナを家にあげることには反対だった。
今も認めるとは言っていない――けれど・・

このまま・・ずっと自分だけのご飯を作ってくれたら。
そんな泡のような祈りを抱いていたことも確か。

この美しく優しい少年の笑みはどこか、
意地っ張りな自分の心の氷を溶かす力があった。

軍を出てからは日雇いの用心棒ばかりしていた自分が
――そろそろ定職に付かないと、と求人情報を眺めている。
一ヶ月前には考えられなかったことだ。
ツナを養うため、定職を探そうとしていた自分に気づくと、彼は愕然とした。
たかだか数日だ――それでも毎日、自分のためだけに食事を作り、夜遅くまで帰りを待つ
――それだけが、こんなにもささくれ立った己を満たしてくれたこと。


 永遠とは言わないまでも出来るだけ長く、彼のそばにいたいと願ったこと。


「どうか此処に、俺のそばに居てくれ」――そう言うより早く
唇を噛み締めてコロネロは「勝手にしろ」と言った。本心では無かった。

「俺明日、街へ行きます・・」
 コロネロさんの傷に合う薬を買って、それから――
「・・此処を出ます」
とツナは言った。よどみのない声だった。
コロネロの下に身を寄せて十日余り――彼なりに導き出した結論だったのだろう。
「・・そうか」
 世話になったな、とコロネロは言った。
 ツナは彼の髪を洗い続けたまま、何も言わなかった。


 己に渦巻く感情にコロネロは気づいていた、けれど。
言葉にするより早く、彼はそれを泡へと流してしまった。


――言えない・・お前を幸せにする・・なんてな。

 叶わないのならせめて自由に、店とは関係のない
世界で息をさせてやりたい――コロネロはそう思った。
――これまで飯を食わせてくれた礼だ。

 コロネロは明日ある場所に赴く決意を固めると、
自分の肩を流すシャワーの音にただ、身を委ねた。





 次の日コロネロは――三ヶ月前飛び出した軍の宿舎に来ていた。
軍の食堂でコックとして働くなら・・あの少年も闇家業から
足を洗えるだろうと彼は、思っていた。
 自分の推薦がツナに優位に働くとは思えないが、
彼の作る料理の美味しさを知るものとしては、その腕を埋もれさせるのは
いささか忍びなかった。


「コロネロ先輩・・!」
 偶然彼の姿を見つけ、近づいてきた男はかつての同僚
(ただしコロネロが年上のため、彼を先輩と呼ぶ)スカル少佐だった。
黒髪に青い目が印象的などこか幼さの残る青年だった。

「コロネロ先輩・・!戻ってきてくれたんですか?」
「勝手に想像するな、コラ」

 俺はもう軍から足を洗ったんだ、そう言い張るコロネロに少佐は残念そうに

「えーっ、みんな待ってますよ・・あの件だって・・」
「それ以上言うと殺すぞ」
「わあああっ・・!」

 コロネロの凄みに、スカルは身を縮めて回れ右をした。
本心で無いのは分かっているが彼に言われるとどこか――現実味が有り過ぎる。

「――ったく・・余計なことべらべら喋りやがって・・」  そう呟き、軍の掲示板に視線を戻す――確か、今期の
コック募集があったはず――彼が求人所の職員に、声をかけようとした時だった。


「――報告は、以上です」


どこか聞き覚えのある声に、コロネロの身体は硬直した。
求人所の内部から響く、囁くような声。どんな事でさえ
聞き耳を立ててしまうこと、それは軍人の癖だった。

話しているのは、求人所の奥――関係者しか入れない隊舎だろう。
 コロネロは身を隠し、求人所のドアを開けるとそれが閉まる刹那――素早く中に潜り込んだ。
職員用の入り口さえ通過すれば、通行証は不要だ。

 声の主はどうやら二人らしい・・コロネロは求人所の壁に身を押し付けると
――その向かいにいるだろう男の会話に、耳を傾けた。

「そうか・・ツナ。・・お前はどう思う?」
「――時期尚早かと」

 その声は間違いなく、昨日髪を洗ってくれた人物のものだった。
コロネロは軍門を抜け――街へと走り出していた。息を切らせるほど駆け、
何から逃げようとしていたかコロネロ自身も分からない、が・・
 教官時代、地獄耳と恐れられた自分が聞き間違えるはずがない――
ツナ、彼は・・かつて自分が所属した――軍の人間だったのだ。





その日の夜、ツナは両手に紙袋を抱えて帰ってきた。
 コロネロのために買い込んだという、薬と包帯を詰め込んで。
 彼は普段と変わらない様子でツナを迎え――その様子を観察した。
人間隠していることがあれば誰でもそこに――違和感が生まれるのだ。
それは不自然な笑顔だったり、つじつまの合わない返答だったりする。

「・・今日どこに行ってた?」
「えーっと、まず隣町行きのバスに乗って・・そしたら
行き先間違えてしまって。大変でした・・それで」
――薬屋に酒屋に、それか本屋にも・・
ツナは一日何をしていたか話し、終始笑顔だった。
 朗らかなその様子は――とても嘘をついているとは思えない。

――聞き間違いか?

 コロネロは初めて自分の耳を疑った――そうであるよう祈った。
この少年がただの一般人であるように。

――ありえねぇな、コラ。

 誰かの身を案じるなど自分らしくない、とコロネロは思う。
そんな感情は軍に入る時棄てた――はずだったのに。
ツナが自分を裏切っていると――彼が軍の人間だとは考えたくはない。
彼を信じたい。


 コロネロはツナを見つめた――彼が何も言わないのならそれでもいい。
――俺はお前を信じるだけだ。  


「右手・・診せてくれますか?」
 包帯を出しながら尋ねるツナに手を見せると――
彼はそのまま、そっとツナを抱き寄せた。
「・・コロネロ・・さん・・?」

 抱き寄せて初めて、その身体の細さを知る。
――こんな身体で、軍で働けるわけないじゃないか。
 耄碌したな、と自問自答しながらコロネロはどこか安堵していた。
あの時軍に居たのは彼ではない――そう確信することが
自分の意地っぱりな心を――緩やかに溶かす。
それは祈りにも似ていた。どうか、このままで。

 ツナはしばらくコロネロの腕の中でじっとしていた――
そして、おもむろに口を開くと
「お願いがあります」と張り詰めた声を出した。


「コロネロさん・・俺は・・」
「もういい」
 嘘が何でも、真実が何でも、どうでもいい。
 ただお前が俺のそばで、微笑んでいてくれたら、それでいいんだ。


「コロネロさん・・軍に戻ってください。貴方を待ってる人がいます、だから――」


――なぁ、ツナ。お前は俺を、待ってはくれないのか?

 コロネロの声は届かない。


「・・戻って――忘れてください。俺のこと」


 そして誰に聞かれても、思い出さないで
――そう告げるころには二人の唇は、しっかりと重なり合っていた。







翌日、少年の姿は彼の家には無かった。
 代わりに一束の新聞が、テーブルの上に広げてあった。

『麻薬密輸組織の摘発に成功!』

 そう書かれた見出しでは、娼館で麻薬の密輸を行っていた組織の摘発に
――軍の特殊部隊が成功した、と大々的に報じられていた。
マフィアに煮え湯を飲まされてきた軍としては久々の大手柄だろう。

――特殊部隊の記事・・どうしてこんな・・

 かつてコロネロは軍の中でも選りすぐりのエリートが入隊するこの部隊に属していた。
マフィアに対する切り札、と称されたこの部隊では『黙秘権』が許されていた。
所属する隊員の、身を守るためである。

半年ほど前、特殊部隊の隊員が、金品と引き換えにマフィアに情報の流したことがあった
――この漏洩事件の際も、黙秘権が適用されたため、真相は闇に葬られた。 
責任をとる形で、その時の部隊を指揮していたコロネロが辞職し
――部隊初の漏洩事件は幕を下ろした。

その時部下の誰かに身代わりになって貰えば身を退かずに済んだのだが
――不器用なコロネロにはそれがどうしても出来なかった。
結果、彼は地位も名誉も全て失い、路地裏でその日暮らしをすることになったのである。

失踪と同時に残された記事――それか彼からのメッセージであるのは間違いないだろう。
――ツナが伝えたかったこと・・は、何だ?

 新聞をくまなく読み、コロネロは思案した。
 初めて会った時、彼は追われていた――彼は気づいたはずだ。何で?
――弾薬の匂いで。

『そういうのは匂いで分かるんです』 

 彼は己を『軍人』と見抜いたはずだ――
調べれば階級や、所属部隊はすぐに分かる。

『軍人さんって強いんですね』 『お願いだから・・軍に戻ってください』

――全部、知ってたのか。

 コロネロが軍人であること、情報漏洩事件で退官したこと
無実の罪を、着せられたこと――知っていて傍にいた。
食事を用意し風呂を洗い、その帰りを待っていた。何故?

――『恩返し』をするために。

・・あいつにとっての恩返しって・・何なんだ?

 コロネロは頭を抱えた――ツナは何度も自分に「忘れるように」頼んだ。
まるで記憶にさえ痕跡を残さないように――そこまで慎重になる理由は何処にある?
 初めて出会ったとき、彼は「誰から」追われていた?  


――軍から?


 そう気づいた瞬間、彼の部屋のドアが見事に吹き飛び中に
武器を抱えた男たちが突入してきた。コロネロは微動もしなかった。
その動きに見覚えがあったからだ。

彼の部屋に飛び込んできたのは、かつての同僚――特殊部隊の人間だった。
「こんな形で先輩の家にお邪魔したくなかったのですが・・」
 申し訳なさそうにヘルメットをはずすと、
スカルは「お久しぶりです」と微笑んだ。

「そうだな――茶の一つでも淹れるか?」
 温め限定だけどな、とコロネロが両手を挙げると
「お気持ちだけ、頂きます」
スカルは銃を下ろし、コロネロに敬礼した。


「貴方に・・密売人との同居疑惑が上がっています」
 軍に戻るなりスカルはコロネロにそう、耳打ちした。
――ツナのことか・・。
 彼が追われていたのが、軍の人間からだったのなら全ての説明はつく
――コロネロが叩きつけたのが軍の偵察部の一人だったこと。
彼に救われたツナが、身の回りの世話を申し出たこと。
自分を匿うことで、コロネロが疑われるのを恐れ
――忘れて欲しいと懇願したこと。


 すべてはひとつの輪で繋がる。けれど・・
――じゃあ軍にいた「ツナ」は・・誰なんだ? 


「・・コロネロ先輩?」
 思い詰めた表情のコロネロに心配そうにスカルは話しかけた。
彼は視線を同僚に戻すと
「・・何でもない・・――俺に、聞きたいことがあるんだろ?」
 元軍人ならばこの先どんな追及が待っているか想像できる。
コロネロの目には恐れも疑いも色もなかった。
自分を迎えにきたかつての同僚を信じていたのだ。
 スカルは生唾を飲み込むと単刀直入に

「・・今なら間に合います。先輩、軍に戻ってください」
「スカル・・?」
「部隊に戻れば黙秘権が仕えます」
「丁重にお断りするぜ」
 言いながらコロネロは組んでいた腕を元に戻した。
「・・先輩?」
「逃げも隠れもしないさ――コラ。でも一つ、確認したい。
・・当たって欲しい店がある――頼めるか?」
「勿論です」

 スカルの二つ返事にコロネロは微笑む。
やはり――この男には軍が似合う、とスカルは直感した。
どんな手を使ってでも疑惑を晴らし、彼を復隊させたい・・
「それから――調べて欲しいものも」
 彼の台詞に答えるように
「それについては俺が答えましょう」
――聞き覚えのある高い声がドアの奥から響いた。





「先輩・・!先輩の言う通りでしたよ!」
 スカルがばたばたと、コロネロの収監されている
監視室に駆け込んで来たのは、翌日の午後だった。

「すごいです先輩・・!どうしてあの飲み屋が密売屋だったって分かったんですか?」
 コロネロは興奮気味のスカルに素っ気無く「口止め料さ」と答えた。
「・・口止め料?」
「元々用心棒代が法外だった――胡散臭いはずだ」
「確かにあの店では度々、麻薬中毒者が発見されていますが・・」
「店が用意した囮だな」
 あの飲み屋は客に麻薬を服用させ――わざと警察にお世話になり
「犠牲者」を演じていた。だからこそ、麻薬の元締めとして暗躍できた――と彼は言う。
「警察に協力することで・・眼を欺こうとしたんだろう」
「そ、そんなことが・・」
「マスターは俺に愛想が良かった。軍の人間を連れて来いと言う
くらい大げさだったのはきっと――軍に恩を売れば、捜査は無いと踏んでたんだろうな」
「先輩――」
 コロネロはわざと、何故「飲み屋」を怪しいと思ったのかその理由を言わなかった。


――最後の日、ツナは酒屋に行った・・

 それだけが、コロネロの胸に引っかかっていた。
ツナと出会ってから彼は、酒を一度も飲んでいない(元々コロネロは下戸だった)
なのに何故、わざわざ隣町の酒屋に行く必要があったのか。
酒と麻薬を同時に仕入れているのなら――ツナの首から提げていたものが
「娼館の札」ではなく「酒樽の番号」だとしたら全て、合点が行く――
彼はコロネロと住むことで軍の眼をくらまし、元いた密売屋の闇へ戻ろうとしていたのだ・・

――闇がお前の住む場所なのか?

 コロネロは彼の胸の内を見抜いてやれなかった先日の自分を悔いた。何故あの時――

 愛してると、告げなかったのだろう?

 そうしたら、あの家で貧しくとも一緒に暮らせたのだろうか。


「・・コロネロ先輩・・?」
「何でもない・・」
 どこか元気のないコロネロにスカルが
「復隊許可が下りました」と告げようとした時だった。





「――貴方の情報提供及び、密売屋に関する考察、実に見事でした」
 監視室に入ってきた青年に、スカルは驚いて立ち上がり、最敬礼をした。
なぜなら彼らの目の前にいたのは軍における最高幹部だったのだ。

「・・た、大佐・・!」
 突然現れたVIPにスカルはどっと汗をかいていた。
――確か・・先輩の尋問は終わったはず・・何か不手際が・・?それとも・・?

 真っ赤になるスカルと、眉一つ動かさないコロネロの両方を見やると、
日本から来たという若い大佐はにっこりと微笑み
「今日は・・お礼を言うために来ました」と言って腰を下ろした。

 声色はツナとそっくりだが背丈は幾分高く、何よりその黒い眼と髪が
印象的な美しい青年だった。
男性とは思えない艶やかさにスカルが生唾を飲み込んでいると。

――俺の身の上については昨日、説明しましたね。

 そう言う大佐を、コロネロは無言で見つめている。
 ヴィーナスの微笑と例えられる笑みに、彼は随分前から見覚えがあった。
 自分を呼ぶこの声によく似た優しさに、恋をした。

「俺の弟を見つけてくれたこと――心から感謝します」
 青年はコロネロに頭を下げ――コロネロは彼に最敬礼を返した。
そして――彼は部隊に復帰した。





 翌日、復隊したコロネロは食堂に向かった。
軍の食堂のランチを大盛りにして食べるのが彼の唯一の楽しみだったからだ。
そこで今まで見なかった「コーヒー・紅茶サービス」の文字を目にした
彼は――軍も随分サービスがよくなったな、と一人で感心していた。

 彼はウエィターの一人を呼びつけると
「オムライスのランチを大盛り、紅茶はホットで――」
「――温めに、致しましょうか?」

 懐かしい声に思わず、コロネロはメニューを床に落とした。
 その声に聞き覚えがあったのだ――自分を見つめる温かい眼差しにも。
――こんな所で、会えるなんて。

「・・ツナ」
「――おかえりなさい、コロネロさん」
――ただいま。

 床に散らばったメニューを拾おうとした、
華奢なエプロン姿を思い切り、抱きしめる。

――もう二度と、離さないから・・な。

 肩越しに見つけた窓枠の空は、いつか見た青よりずっと、澄んでいた。