薔薇の運命 



















「もう明日からこなくてもいいからね」

刺すような主人の言葉に新参者のメイドは、紫紺の絨毯が敷き詰められた床に泣き崩れた。
「雲雀様・・後生ですから!」
「五月蝿い」
 その頭に銀色のトンファーが振り下り、昏倒したメイドは身体を折り曲げたまま
動かなくなった。


「捨てておいて」という言葉を残し、漆黒の瞳と髪を持った主人は自室に戻った。
 彼女は主人の寝室に飾る花を間違えたのだった。
月曜日は薔薇、火曜日は百合・・たった一日間違えたミスが、生きる糧となる仕事を奪った。


 整備された薔薇の庭と藤棚が優美な雲雀邸の主人は、その我儘さと、傍若無人さでは
街で一番の有名人だった。
王室の親類という高貴な血筋と、南部に油田を所有する豊かな経済力により
彼は政財界でも一目置かれていた。
街の裏社会に精通している者は、彼の背後にある組織の名を聞いただけで
尻尾を巻いて逃げ出すと言われていた。


 雲雀恭弥は、有り余るほどの財と、けして薄まることの無い血筋と
理不尽な暴力を同時に携えた――この小さな街の影の支配者だった。


「ご主人様・・お茶をお持ちしました」
 震える声でドアをノックすると、ツナはおそるおそる主人の部屋に入った。
彼はメイドの中でも一番の新入りで、三本の指に入るくらい不器用だった。
その幼い顔立ち故、人事を担当していた執事に間違われて拾われ、彼がこの屋敷に
やってきたのは先月のことだった。
ここが背筋も凍りつくような恐怖の代償に、一生暮らして行けるだけの賃金と安寧が
得られるという場所であることを、ツナは勤めだしてから知った。  


それでも、彼には他に行く先が無かった。
以前いた孤児院でも、ツナを引き取ろうとする里親はいなかったのだ。
 ご機嫌斜め、と言った表情で机に頬づいていた彼の主人は
部屋に入ってきた見慣れないメイドを興味深そうに見つめ返した。


「君・・新入り?」
「は・・はい。ツ・・ツナと申します」


 初めて交わす主人との会話に、ツナは語尾を震わせながら答えた。
せっかく淹れてもらった彼専用のアールグレイを、冷める前に渡さなければならない。
もちろん、これ以上短気な主人の気を損ねることなく。


盆に載せたティーカップをがたがたと揺らしながら、ツナは一歩ずつ彼に近づいた。
目を合わせると、腰を抜かして倒れそうだった。
「君が例の――」
 言いかけて立ち上がると、彼はツナに向かって歩き出した。
何か機嫌を損ねることをしてしまったのではないか、と感じたツナの額に冷や汗が流れ落ちる。
 彼はツナの顎を指先で持ち上げると、その薄茶色の瞳をまじまじと見た。
間近で見る睫の長い整った顔だちに、されるがまま上を向いていたツナの心臓は早鐘を打った。
緊張とは違う高鳴りだった。


「混血だね?」
 主人の問いに、ツナは視線を落として頷いた。
異国の血が混じる禁忌の色の髪と瞳は、ツナに生まれながらの孤児という運命を突きつけた。
施設ではその肥沃な大地の色の髪を引っ張られ、誰もツナと眼を合わせようとはしなかった。
手違いとはいえ、ツナは自分を召抱えてくれたこの屋敷の主人に、一生かけても返せないような
恩義を感じていた。
どんなに人でなし、と呼ばれようとも彼は、自分を必要としてくれた
人生の中でただ一人の人間だった。  


「もっと、よく・・見せてごらん」

 細い右腕に強引に引き寄せられ、ツナが足を進めたときだった。
毛足の長い絨毯に躓き、彼は身体を大きく傾けて仰け反った。
その弾みで、お盆からずり落ちたカップが中を舞い、絨毯には丸い染みが広がった。
殺される、とツナが思ったその時だった。


 申し訳ありません、と言いかけた唇に柔らかい何かが当たって
ツナは紅茶色の瞳を満月のように見開いた。
自分のそれと重なっていたのは、先ほどまで笑みを浮かべていた彼の唇だった。


 一瞬の交差の後、離れた熱にツナは体の芯を吸い込まれたかのように座り込んだ。
彼は飛び散ったカップには気にも留めず、ツナの前で膝を付いて屈むと豹のような鋭い瞳を細めて言った。


「もう一度おいで。今夜十一時に」


 薔薇の花の刺繍が施された絨毯には、飴色の染みが徐々に広がっていた。
ツナの心は、彼の真っ黒な瞳に雁字搦めにされそうだった。
眼の前で咲いているのは、彼が毎日愛でる花より鮮やかな笑顔だった。





























言われた通り、午後十一時きっかりにドアをノックすると
ツナは音を立てないよう身を屈めてそろりと室内に潜り込んだ。
午後十時以降物音を立てることは、理不尽な決まりの多いこの屋敷ではご法度だった。


 がくがくと震える足を両手で支えながら、ツナは室内を見渡した。
主人の部屋は、ドアの正面が書斎、向かって右が応接室、左が彼の寝室になっていた。
群青のカーテンの向こうには、彼が毎日世話をしている藤棚と薔薇の庭園が広がっている。


「こっちへおいで」
 滲むような声にツナが振り向くと、漆黒のパジャマを身につけた彼の主人が
タオルで髪を乾かしながら寝室の前に立っていた。
自分の置かれた状況に、返す言葉を失ったツナの手を取ると
彼は強引に華奢な腕を引きツナを部屋の奥に連れ込んだ。
寝室の隣は彼のお気に入りのバスルームになっていた。


 深紅の薔薇の花弁が浮かび、カモミールの香が漂うバスタブには
湯気がこうこうと沸き立っていた。
彼は慣れた手つきでツナのエプロンとスカート、ブラウスを脱がすとツナを抱きかかえて
真っ白に磨かれた浴槽にざぶんとその身体を落とした。
いきなり身ぐるみをはがされたツナは声も出せず
両腕で身を隠すようにして淡く色付いた湯船に身体を沈めた。


その骨と皮しかない身体に、ところどころ古い傷跡がある。
彼が孤児院にいたとき、孤児や施設の管理者に折檻された跡だった。
「旦那様・・」


 他人に裸を見られることはもちろん羞恥に値することだったが
特に彼に自分の古傷を見られることはツナの心を引き裂くように切り刻んだ。
彼にだけは、自分の前身を知られたくなかった。
この世に存在してはならないものとして、忌み嫌われ迫害されたかつての自分を
――彼にだけは知られたくなかった。


そんなツナの逡巡を知ってか知らずか、彼は黙々とツナの髪を洗い始めた。
ミントが香るシャンプーが眼に入って、ツナは両目を固く瞑った。
かつては刈られそうになった土の色の髪を優しく洗う彼の手つきに
何故かツナは泣きそうになった。
自分でさえ恨みさげずんできた身体を、こんなに大切に扱う人に出会ったのは初めてだった。


誰よりも尽くさなければならない人物に、丁寧に身体を洗われながら
ツナはぼんやりを彼の横顔を眺めた。
いつも刺すように冷たい漆黒の瞳が、今日は光を浴びた黒猫のように細い。
彼が――笑っているのだと気づいたとき、ツナの瞳に僅かに零れるものがあった。


名前も知らない感情から溢れた一滴に、納得のいく理由も
頷けるような裏づけも存在してはいなかった。
ただ焦がれるように自分を熱くする何かは、ずっと以前
――おそらく物心付いた直ぐに、捨てたものだった。


 頭のてっぺんから足のつま先までツナを洗い終えると
彼は真っ白なバスローブにツナを包め、抱きかかえたまま寝室のドアを蹴り開いた。
半乾きの髪を額にまとわり付かせたツナは、自分の背中の下の柔らかい感触に小さく声を上げた。
寝かされたのは、古参のメイドさえ触ったことの無い、主人の神聖なベッドだった。


「綺麗になったね」


 シーツの上で硬直するツナを見下ろすと、彼は濡れたツナの髪を掻き揚げながら微笑んだ。
洗いざらした漆黒の髪は艶やかに輝いて、鷹のような切れ長の眼を引き立てている。
旦那様の方がずっと――と、言いかけたツナの唇を微笑んでいた彼のそれが塞いだ。
先ほどとは違う、心の底が震えるようなキスだった。


 ツナの身を包む白い布を剥ぎ取りながら、彼は何度も「綺麗だね」と言った。
優しい言葉と荒々しい所作に溶けそうになりながら、ツナは一番小さい自分の入り口で
熱いもう一人の彼を受け入れた。
切れそうなくらい痛くて何度も、彼の背中に爪を立てたのに彼は何ひとつツナを責めなかった。
引き裂かれそうなくらい苦しかったのに、湧き上がる切なさにツナは
何度も彼の肩口に額を押し当てて泣いた。


閨で見上げた彼の瞳は怒っているようにも、笑っているようにも見えた。
押し上げる熱と駆け抜ける痺れにすでに力の入らない身体を震わせながら
ツナはけして紡いではならない思いを何度も何度も飲み込んだ。
心と体がどんなに壊れても、つぶれそうな胸の奥の言葉を告げることはできなかった。