涙
大切なお話があります、と彼に放課後空けておくよう頼まれた時はびっくりした。
朝一番にそう告げてから、彼は一日中怒ったような顔をしていた。
何かひどく緊張していたようだった。
何事だろうと思案した俺も、あまり前向きではない想像しかできなくて、
結局彼の言う時刻を待つしかなかった。
何だか判決を言い渡される被告人みたいな気分だった。
そして午後五時半、夕陽の滲む教室に二人きりで居残ると、
彼は大きく息を吸ってから吐き出すようにそう言った。
半ば、叫んだと言っても良かった。
「俺・・十代目のことが好きなんです!」
「うん、俺も君のこと好きだよ」
・・そんなことをいうために、わざわざこんな状況を準備したの?
俺は即答してから伺う様に彼を見た。
優秀な彼の脳の神経回路はいきなりスパークしてしまったみたいで、
彼は両手で拳を握り上げたまま硬直してしまった。
すんなり了承されるとは思っていなかったみたいだった。
何の迷いもなく答える俺も俺だけど、好きなものは好きだから仕方がない。
そんなの彼だって気づいてると、思っていたんだけど。
それは俺の勘違いだったらしい。
もう一つ言えば、彼が俺に何らかの好意を抱いていることは、
随分前から公認の事実だった。
他人の好意に鈍感な俺でも、一日中付きまとわれていれば
「気に入られていること」くらいは想像がついた。
それが嫌ではない時点で、俺もどこか彼が好きなんだなと思った。
それがいわゆる「LIKE」ではなくて「LOVE」に近いことに、
最近気づいたばかりだったけれど。
彼はずっと当たり前みたいにそばにいたから、俺はそれで十分だった。
そのまま十秒くらいは固まっていただろうか。
いきなり彼は脱力して、掃除したばかりの板張りの床に座り込んだ。
身体中に力を入れてさっきの言葉を述べたため、
抜けた緊張の分だけ脱力したようだった。
頭を上げる気力も無いのか、背を丸めた彼はうな垂れ
銀色の髪が夕陽に赤く反射している。
あまりにアップダウンの激しい彼のリアクションに、
俺は心配になってしゃがみこんだ。
「獄寺君・・大丈夫?」
前髪の奥の表情を覗き込んで、俺は言葉を失った。
蒼いビー玉みたいな眼からぽろぽろと大粒の雫が零れ落ちている。
端正な顔は溢れ出る涙で溶けそうなくらい歪み、
彼はひどく悔しそうなやるせない顔をしていた。
何がそんなに彼を落胆させたのか俺には分からなかった。
「夢みたいです・・俺、幸せです」
まるでプロポーズに成功したかのような感激ぶりだった。
彼は止め処なく流れる涙を何度も右手で擦りながら、
ときどき鼻水をすすった。
垂れ下がった眉毛と緩んだ口元が情けなさを助長し、
いつものきりりとした美貌は完全に損なわれていた。
めそめそしててもなんら女々しくないのは、彼の整った顔つきに
拠るものが大きいように俺は思った。
美形は泣いても、怒っても様になる。
俺がハンカチを差し出すと、彼は驚いて困った顔をした。
受け取れません、と眼で訴えた彼に俺は「とりあえず顔拭きなよ」と言った。
正直そんなに喜んでもらえるとは思っていなかったし、
大泣きされるとも予想していなかった。
そんな彼を見ていたら、何だか目頭が熱くなってきてしまったのも、
俺にとっては不測の事態だった。
「十代目・・?」
彼にハンカチを渡したら、今度は俺の方が涙ぐんできた。
霞む視界の向こうで心配そうな蒼い瞳が俺を見つめている。
何だか恥ずかしくなって、俺はしゃがみこんだまま彼に背中を向けた。
涙と一緒に彼の感情まで受け取ってしまったようだった。
彼は困惑した声で俺を呼んだ。
俺は答えなかった。心の中でだけ、獄寺君のばか、と思った。
俺の前であんな風に泣いたりするから、俺も泣きたくなるんだと思った。
この上なく幸せそうに笑うから、俺の心臓もおかしくなってしまったんだ。
全部全部獄寺君のせいなんだ、と俺は思った。
けして、口には出さなかったけれども。
十代目、と彼は呟くように言いそれから彼の両腕がそっと、俺の肩を包み込んだ。
抱きしめられていると分かったのは、背中に彼の体の僅かな重みを感じたからだった。
触れられただけで、高鳴る心臓は壊れてしまいそうなくらい早鐘を打った。
それを彼に知られてしまうことが、一番恥ずかしかった。
「・・俺、幸せです。本当に、幸せなんです」
俺の前で交差する彼の腕と、彼の言葉が震えている。
もう俺は泣いてはいなかった。
正確に言うなら、涙を浮かべながら笑った。
なんて不器用なんだろう、と俺は思った。
片思いでも、両思いになっても俺たちは、
好きというだけでこんなに照れくさくなってしまってどうにも後が続かない。
教室の端から広がる夕焼け色を眺めながら、俺は彼の両手を包みように握った。
銀の指輪のごつごつとした感触と、火薬の匂いのする手の温かさを確かめながら、
俺はぼんやりと薄闇の広がる東の空を見た。
教室の戸締りの時間になって追い出されるまでずっと、こうしていたかった。