声をかけてもらわなかったら彼だとは気づかなかっただろう。


「ツナ兄・・!」  跳ねるような声に振り向くと、灰色のスーツを着た青年が
蒼い眼を細めて真後ろに立っていた。見覚えのある革張りの
辞書と、その声でようやく――俺は目の前の美青年が以前
部屋に住み着いていたおたずね者のランキング屋だと知った。
「フゥ太・・?」
 うん、そうだよと貴公子は微笑む。
既に俺を見下ろすようになった背丈で。
「久しぶりだね、元気だった?」


 すぐ近くにあった喫茶店で向かいの席に腰掛けると
フゥ太はさっそく持っていた鞄からノートパソコンを開いて
かたかたとキーボードを叩いた。
「ごめんね、今株価に変動があったみたいだから」
 情報屋業は数年前に廃業したと風のうわさで聞いていた。
今彼は押しも押されぬ青年実業家として、主に政財界で名を馳せていた。


今度の党員選に立候補すると報じた新聞を読みながら
俺はいつのまにか時の人になった彼を胸の奥でずっと応援していた。
あんな別れ方をしてしまったからかもしれない。


「大変だね。けっこう目まぐるしい業界みたいだから」


 議員になれば俺と一緒にいることなどもう出来ないのだろう。
仕事で立ち寄ったパリで会えたのは偶然――と俺は思っていた。
パソコンを閉じた彼が、両手を頬に当てて微笑むまでは。


「・・それでね、今日はツナ兄に相談があってきたんだ」
「――相談?」


今度の選挙は実は出来レースなんだと彼は続けた。
ある議員の贈賄容疑が持ち上がる前に、汚点をかき消してしまおう
という本部の意向により、たまたま秘書としてのキャリアを積んでいた彼に
後釜として白羽の矢が立ったらしい。


「・・ある人物を、消して欲しいんだ」


 思い当たる節に検討がついて俺は伺うように彼を見た。
辞職させられる議員が余計なことを監獄で吐く前に
火種を消してしまおうという寸法なのだろう。


用済みを直ぐに抹殺するところは、ようはマフィアも政治家も
後始末の方法は一緒だった。


「分かった。人選はこっちでするよ」


 二三候補を思い描いて、承諾するとフゥ太は安堵した様子で
ふわりと笑った。シャンゼリゼ通りの、こんな街角で暗殺依頼を受けるとは
ましてその相手が十年前は自分の腕に飛びついて離れなかった弟分とは
・・夢にも思わなかったことだ。


オーダーしたシフォンケーキとアップルパイ
カフェオレとレモンティーが届いたのでまずはお互いカップを
かちんを重ね合わせた。取引成立の乾杯だった。


「・・変わったね、フゥ太は」
 カフェオレをゆっくり喉に落としながら俺は言った。
円形のケーキのうえで生クリームが少し溶けている。
「――変わらないね、ツナ兄は」
 レモンティーに砂糖を溶かしながら彼は答えた。
歓談しながら彼がとある外資系企業を大量の株価取得で
買収していたことを、明日朝一番の新聞で俺は知る。


「・・よく言われるよ」
 ケーキを一片、口に放り込みながら俺は苦笑した。
帰れば開口一番俺に注文をつける元家庭教師が
心配性の右腕と一緒に俺の報告を待っている。


「いつまでも馬鹿で駄目で頼りなくって」
「そんなことないよ」


 フゥ太はかき消すように言うと、アップルパイを齧った。
白い歯がパイ生地をぱりぱりと噛みゆっくり咀嚼して飲みこむ。
お菓子を食べる姿さえ優雅だ。
彼が先月の経済誌に今最も輝いている実業家十人に選ばれた
理由が分かった気がした。
言葉や所作の一つ一つにオーラがあるのだ。
思わず人を惹きつけまた、頷かせてしまう様な。


「ツナ兄は・・ツナ兄じゃなきゃ駄目なんだよ」
「そうかな」

照れくさくなって鼻を擦ると、フゥ太は紅茶を飲んでから
そうだよ、と小さく加えた。
四年前彼とこんな風に紅茶を飲んだときは、こんなに穏やかには話せなかった。


 当時のフゥ太は情報屋家業存続の危機に立たされていた。


何も聞こえなくなったと相談を受けたとき、俺は彼を一喝した。
ランキングの星に頼って生き続けたいのなら、過去の栄光に縋り付けばいいと。
いずれ失う運命なら、それを転機にしないと・・と、俺は彼に言った。
イタリアに向かうか否か散々悩んだことが俺を少し図太くさせたらしい。

 彼は若くて賢くて機転も利いた。
情報屋でなくても生きる道はそれこそ星の数ほどあったのだ。
彼の可能性を星の声が聞こえなくなったくらいで潰したくは無かった。
それが彼との別離を意味しても。


 ありがとう、と俺が言うとフゥ太はカップを置いて
「やっぱりツナ兄のお母さんのつくったアップルパイの方が
百倍美味しいね」
 と言った。突然の台詞に俺が戸惑うと彼はこう続けて笑った。
吹っ切れたという微笑みだった。


「僕の初恋は、ツナ兄だったんだよ」
「・・知ってる」


 四年前確かに告白された。
何の能力もなくてもそばにいたいと彼は言った。
茶色の眼から、一筋涙を零しながら。
俺はそれを断って突き放した――それは俺にとっても辛い決断だった。
そばにおいてそれこそ愛人の一人として彼を囲うことは十分可能だった。
でも・・そうするにはあまりにも惜しい人材だった。


 だから放り出した――いつまでも彼の才能を俺だけのものにはしておけない。
彼はもっと高みに上れる人間だった。チャンスさえあれば。
そして今、彼はその一歩を踏み出しつつある。着実に。


「あの後ね、十年前に飛んだんだ」
 ボヴィーノだっけ?時間軸を歪める、変な武器があったよねと彼は続けた。
冷めたレモンティーと一緒に、感傷に浸りながら。


「十年前のツナ兄に、アップルパイもらったんだよ」
 美味しかった、と彼は言い、レシートを持って立ち上がった。
別れの時間が近づいているらしい。
フゥ太、と俺は彼を呼んだ。振り向いた彼は笑っていた。
 寂しいけれど、仕方が無い。あの晩俺と彼は行く道を違えたのだ。
彼を追い出したことを後悔したことは一度もなかった。


 フゥ太ならやっていけると、信じていたから。


「・・頑張れよ。力にはなれないかもしれないけど・・応援してる」


 将来は内閣入りも示唆されるエリートだ。
こんな路地裏のチンピラといつまでも関わりを持っていると
彼の前歴に傷がつく。きっと話をすることが出来るのは今日が――最後。


「・・俺は、フゥ太のこと・・好きだったよ」


 彼は一度大きく眼を開いて、それからふっと相好を崩し
その場で一礼した。丁寧なお辞儀だった。



 それから彼はドアノブを引いて、光溢れる街路へ出て行った。
俺は闇の寝床へ戻るだけだ。
 彼の食べ残したアップルパイを見ながら俺はそのとき初めて
彼の言った「十年前」を思い出した。


 確かに一度、十年前――ランボの例のバズーカが彼に当たったことがあった。
出てきた彼はまるで王子様みたいだったのに、どこか悲しげだった。
――十年前の俺に、彼は別れを告げにきたのだ。


初めて彼と出会い、楽しい日々を過ごした十年前に
――さよなら、を言いに。


 そのときの彼の眼差しの切なさを思い出した時、ふいに頬を冷たいものが流れた。
泣いていると気づいても俺は、彼の後姿を追うことは・・出来なかった。




『巴里の別れ』