[ 10年物 ]
十代目、と呼ぶ声に振り向くと窓の外にランボが
立って右手を振っていた。いつからベランダに立って
いたのか。どうやって地上130メートルのペントハウスの
外壁を上り伝ってここまで来たのか。
そもそもたどり着くまでによく狙撃されなかったな、とか。
彼を見た瞬間に思いついた諸々の逡巡は、その溶けるような
笑顔にかき消された。俺を見てこんなに嬉しそうに微笑むのだって
10年来変わらない。変わったのは、いつのまにか俺が彼を
見上げるようになっていたという事と、彼が俺を呼び捨てには
しなくなったという事。
「・・何か嬉しいことでもありましたか?」
窓を開けて彼を招き入れると、俺の腕を引いた牛柄の
シャツから微かに香水の香がした。酸っぱいのにどこか甘くて
爽やかで鼻につかない香は、彼の大好きな果物にとてもよく
似ている。
「ランボが来てくれるだけで嬉しいよ」
いつだって突拍子もないところから。
どこだって笑顔と、俺の好みを的確に捉えた手土産を
携えて。
魔法使いのように現れては消える。息もつかせない
甘い痺れと、交わした熱のぬくもりを肌に残して。
「10代目がワインに合うチーズをご所望と聞いた
ものですから・・」
彼が差し出した薄緑色の包みの中には、イタリアで
一番入手困難といわれる高級なモッツアレラチーズが
宝物のように鎮座していた。
「良く知ってるね。俺がワイン貰ったの」
「何でも知ってますよ。貴方のことなら」
どこで聞きつけてくるのかは知らないが、
彼は俺の行動を大概把握している。何処で何をして
誰と会談して――今、何を思っているのか。
「じゃあ、今俺の考えてること、わかる?」
紫色の瞳を見上げて尋ねると、葡萄色のそれが
ふいに細くなった。彼は包みをテーブルの上に
置くと俺の腰を支え、ひょいと横抱きにして
持ち上げ、すたすたと部屋を横切る。
たどりついたのは、ベッドメイキングされた
寝室でもなく、薔薇の花の散る沸き上がったばかりの
バスタブでもない。
彼は俺を、書斎の奥の革張りの椅子にそっと
乗せると、器用に片目を閉じて微笑んだ。
「まだ、お仕事中だったのでしょう?」
「・・よく分かったね」
驚いた俺が息を吐くと、彼は俺のサインを待つばかりの
書類が散乱する机を一瞥して、優雅に頭を下げた。
「待っててくれるの?」
もちろん、と彼は頭を上げて微笑んだ。どんな宝石より
艶のある微笑に俺はいつも、吸い込まれそうになる。
「俺はいつでも貴方を、お待ちしていますよ」
ワインは10年、樽の中で寝かされて熟成される。
その濃厚な甘味を舌先で転がして味わうことを
教えてくれたのは、彼だった。
今、俺を惹きつけて離さないのは彼の
優しさでも機転でも・・まして溶けるような笑みや
見た目以上に筋肉のついたしなやかな身体でもない。
俺を何よりも捕らえて離さないのはこの心臓を
押しつぶす、一握りの透明な形のない感情。
それは愛や恋よりはもっと深くて、家族より
ずっと近くて。
10年胸の奥に寝かされた思いの結晶なんて
言葉にすればあまりにも呆気ない。
「ここにいてよ、せっかく君に逢えたんだから」
10年前は、引き止めることさえ出来なかった。
だからせめて、この手の届く距離にいるのなら。
「貴方の仰せならば喜んで」
そう膝まずいた真っ黒な癖っ毛に
身体を傾けてひとつ、キスを落とした。