月影の密会




















サン・マルコ広場はたくさんのゴンドラが波立てる水音と、行きかう旅人の影に溢れていた。
ツナは予約しておいたゴンドラに一人で乗り込むと、オールを漕ぎ運河をゆっくりと進んだ。


教会と広場を臨む運河を抜けると、ツナは岸辺に佇むホテルの
豪華な装飾を眺めながら進路を左にとった。
ヴェネツィアで最も広くて大きな水路、大運河はさすがにたくさんのゴンドラでひしめいていたが
その先の市長舎とイタリア銀行を越えると水際にある売店の休業日なのか、辺りは閑散としている。
ツナはリアルト橋のたもとにゴンドラを寄せると、舵を置き波面に揺れる小船に身を任せ
日が暮れるのを待った。


「ボンゴレ、こちらです」


 声に振り向くと、河岸に手を振る黒いスーツの男の姿があった。
男はツナと目が合うとにっこりと微笑み、何処からとも無くゴンドラの前に現れ
ふわりとその中に下りた。
 秘密の逢引、というには余りに堂々としたその姿に、一応旅行者に見えるよう普段着に
着替えていたツナは苦笑した。


「いくらなんでも目立ちすぎだよ・・ランボ」
 もう少し回りに気をつけて、誰が狙っているか分からないんだから、と
隣に座る彼に耳打ちすると、彼は葡萄色の瞳を細めてこう答えた。
「俺が的になりますよ」


 自分を見つめながらの悠然とした答えに、ツナは一瞬息を飲んだ。
彼はツナの思考を読んでか、ふいに視線をそらすと
「月が綺麗ですね・・」
と言った。折しも今夜のヴェネツィアは、霞みが掛かった満月だった。


二の句を探すようにツナは黙った。
敵のファミリーのヒットマンと、のんびり月を見るために水の都を訪れたわけではなかった。


「俺を・・殺しに来たんでしょう」


 いきなり図星を突かれて、ツナは咄嗟に振り向いた。
何か言いかけたがうまく言葉が出ない――明らかに同様している時点で
先読みされているのは自明だった。  


ランボ暗殺、の密命をツナが聞きつけたのは昨日のことだった。
中小マフィアと言えど、ボンゴレの10代目に近づく男の影を長老会が
見逃すはずがなかったのだ。
当初リボーンに下された指令を、ツナは無理を言って譲り受けた。
10年来の仲なのだ、せめて自分の手で引導を渡してやりたい。
それが、幼少時から公私に渡り面倒をみて来た昔馴染みに対する、唯一の手向けだった。
「――逃げなよ、ランボ」


 ツナは出来る限り、彼に近づいて小さく耳打ちした。
この先のパラッツォ小運河を越えた「嘆きの橋」に、リボーンが用意した
ボンゴレの暗殺部隊が多数待ち構えている。
ツナの役目はランボをそこまで誘き出し、一斉射撃の前に彼をゴンドラに残して去ることだった。


「嫌です」
ランボははっきりと、ツナの眼を見て答えた。
薄茶色の大きな瞳は見開き、水面に揺れる月まで映し上げそうだった。


「何言って・・」
 鮮やかな拒否にツナの声は霞んだ。
殺されるんだよ、お前――と言いかけた小さな唇を彼は人差し指そっと閉じる。
彼は、ツナがどんな目的で月影の密会を催したのか十分すぎるくらい承知していた。
自分が敵対するマフィアに属していることを知った瞬間から、消されることは覚悟していた。
それでも許される限りは愛するひとのそばにいたかった
――自分の命の火が灯るその限りは。


「貴方と一緒にいられる最期の夜でしょう?」


 謎掛けをするかのように、ツナの口元から離した人差し指を彼は自分のそれに当てて微笑んだ。
答えはツナにもすぐに分かった。
――彼は死を望んでいる、ツナの手で下される甘い酔いのような死を。
「生きてひとりで暮らすより、死んで貴方のそばにいたいんです」



 8歳も年の離れた男の我儘に、ツナは苦笑と涙を零した。
それをけして見られぬよう両手で顔を覆いながら。
「馬鹿・・ほんと、馬鹿だよお前・・」


 侮蔑の言葉さえ最高の賞賛のように、ランボは微笑んだ。
月光に滲むゴンドラの街より美しく、切ない微笑みだった。


「貴方が・・俺を、殺してくれますか?」


 震えるツナの手を取ると彼は、その甲にそっとキスをした。
その時青い血管の浮き出た手から液体の入った小瓶が落ち、それは音も無く運河に沈んだ。
せめて彼が苦しまぬようにと、ツナが用意した毒薬だった。


 両目から零れ落ちる雫は、薄色の瞳を溶かしてしまいそうだった。
ランボは、蒼い瞳に月を映して微笑むと、僅かに開いた薄紅色の唇にキスをした。

どんな毒薬より甘美な――罠も涙に崩れ落ちていくようなキスだった。