今日だけ、俺は
普通のどこにでもいるような人間
「沢田綱吉」に戻る。
『 ring 』
その日の成田は晴れだった。
旅行を終えた家族連れ、新婚旅行に向かう雰囲気のカップル
携帯を耳にあて小走りに通り過ぎるサラリーマン・・
空港は様々な人間がひしめき合い、群れをなして賑わっていた。
ツナは到着ゲートに身を乗り出し、食い入るように
乗客を見つめていた。何度も電光掲示板を確認した。
――もうすぐ彼に、会える。
NYからのエア・メイルがナポリに転送されてきたのは
一昨日だった。大事な会議をいくつもキャンセルして
リボーンの都合を取り付けて、チャーター機で極秘に
来日したのが昨日。
ツナは五年前からずっと・・「今日」を待っていた。
NYから戻る、山本と会う日を。
「チャンスは一度だけだからな」
リボーンの言葉にツナは頷いた。顔を見て、話が出来たら
それだけでいいんだ。
「沢田綱吉」は「山本武」のことを忘れるよ。
そう約束して、まだ眠ったままの街を出発した。
――最後の嘘をつくために。
「ツナ!」
眼が合った瞬間、長身の青年が右手を挙げた。
そのまま大きく手を振り、ツナに向かって一直線に
近づいてくる。
「山本・・」
隔てた距離も、離れた年月も感じさせないその
振る舞いに、ツナは胸が苦しくなった。
「久しぶり」
高校を卒業して、プロ入りを断った山本がNYに野球留学したのが
五年前。
それは同時に、ツナがボンゴレ頭領を継ぎ名実共に「10代目」になった
年でもあった。
山本をNYに送りだしてから、ツナはリボーンと
一緒にイタリアに渡った。山本には何も言わなかった。
ただし、ツナ宛に届いた手紙はすべて本部に転送され
ツナは日本の大学で英文学を学んでいることになっていた。
「あんまり変わってねーなぁ、ツナは・・」
ははは、と笑いながら山本はツナの髪を
くしゃくしゃにする。それも五年前と同じ
山本の癖だった。
屈託のないその様子にツナは胸を撫で下ろす。
――よかった。たぶん、ばれてない。
「山本は・・随分背が伸びたね」
見上げるとツナは頸を痛めそうだった。
背丈も外見もほとんど変わっていないツナに対して
山本は背丈が20cm以上も伸び、黒く焼けた肌が精悍な
風貌を際立たせていた。
さっきから女性がちらほら振り返るのは
おそらく彼の容姿のせいだろう。
細身で長身ながら、羽織ったシャツの皺を見れば
その下に鍛え上げられた筋肉があるのは容易に見て
取れた。
さっぱりと短く切った漆黒の髪と、痩せこけた
頬、高く通った鼻、大らかな眼差しの瞳を細めて笑う
その姿はメジャーリーガーというより雑誌のモデルに近かった。
「焼けたぜ?向こうはけっこう日差しも強いんだ」
「そうなんだ・・」
山本の微笑みに、ツナもつられて笑った。
こんな会話は何年ぶりだろう、とツナは思った。
そしてもう二度と来ない・・立ち話のままNYの
様子を話す山本にひとつひとつ頷きながら
ツナはひと時の逢瀬を噛み締めるように楽しんだ。
「――でさ、これ。おみやげ」
「あ・・うん。ありがとう」
山本が手渡した紙袋を受け取ると、ツナは
決心したように上を向いた。
すべてはこの一言のため。
叶わない願いにピリオドを打つための。
「あのさ・・山本、俺・・結婚するんだ」
一瞬山本は虚をつかれたような表情をしたが、すぐに笑みを返した。
「それはよかったな。おめでとさん」
「・・あ、ありがとう」
素直に祝福されて、ツナはどもった。
「相手は?」
「ちゅ・・中学の幼馴染」
「やるな〜ツナも」
隅に置けねーじゃん、と肩を抱かれてツナは口から心臓が飛び出しそうだった。
そのまま、「日取りはいつよ?」と聞かれて
「まだ決まっていないんだ。今度連絡する」と答える。
そんな日は永遠に来ないと知りながら。
「じゃ、じゃあまた・・俺、急ぐから」
これ以上一緒にいてはよくない。
おそらく自分は泣き出してしまうだろう。
ツナは無理矢理笑顔をつくって、山本から離れた。
ここまではシナリオ通りだった。
たったひとことの山本の台詞以外は。
「そっか・・じゃあ、遅かったな」
「何が?」と尋ねるツナに、
「いやいや、こっちの話」と山本は笑う。
――彼は、終始笑顔だった。
「じゃ、またな。ツナ」
陽気に手を振る山本にツナは頷くと、そのまま
背を向けて一目散に走り出した。
出発ゲートでリボーンが痺れを切らして待っている。
ツナは一度も振り向かなかった。だから気づかなかった。
俯いた山本の眼から零れる――大粒の涙に。
「随分遅かったな」
リボーンに皮肉を言われるのは分かっていたので、
ツナは「ああ」と短く答えた。
「終わったよ」
すべて終わった。五年間手放せなかった思いも。
嘘をついてつくった思い出も。
ツナはシートベルトを腰に回すと、山本からの
土産を膝の上に置いた。たとえすべてが虚構でも
今はこれだけがたったひとつの「夢」の名残だった。
「あいつに、言わなかったのか」
もちろんだよ、とツナは隣に座るリボーンに答えた。
自分がイタリアを牛耳るマフィアのボスなんて口が裂けても言えない。
まして野球選手を目指す山本をそんなキナ臭い世界に
巻き込む気もツナには毛頭なかった。
「そうか・・残念だな。将来有望な右腕候補だったのに」
「何言ってんの?リボーン」
そんなことあるわけないじゃないか、とツナは訝し気に
リボーンを見た。彼は心底落胆しているようだったのだ。
「奴は入ファミリー試験に合格した」
「・・リボーン?」
「あいつは、全部知ってたぞ」
ツナは悲鳴を上げそうだった。そのままリボーンに
掴みかかりたかったが、あまりの衝撃に身体が硬直し
身動きひとつ取れない。一気に顔の血の気が引き
ツナは蒼白のまま倒れそうだったのだ。
「・・何を、言ったの?」
――リボーンの言葉が信じられない。
今 彼は何て言った?
「だから全部だ。お前のことも。ボンゴレも。俺のこともだ」
「嘘・・」
嘘をついてどうする、とリボーンは息を吐いた。
「あいつがNYに行くとき、全部教えてやったんだ。
地位も名誉も全部やるから、右腕にならないか?とスカウトした」
次々と真実を告げられ、ツナは言葉も出ない。
「そしたら、あいつ返事を保留しやがった。
『ツナが誘ったらイタリアに行く』って」
リボーンは残念そうに頬杖をついた。
「五年待ったんだけどな・・」
「・・だって、山本は野球選手に・・」
少しずつ、ツナは思考を取り戻した。
打ち明けなかった理由はただひとつ。
――野球に勤しむ山本の人生を棒に振りたくなかった
だけだ。
「お前、ほんとにあいつが野球留学したと思ってるのか?」
リボーンの声にツナの息は詰まる。
「あいつは語学留学してたんだぞ、お前のために」
「・・・」
ツナの頭は真っ白だった。エア・メイルには野球のことしか
出てこなかった。予想だにしなかった――彼も嘘をついていたなんて。
「英語、イタリア語、スペイン語、フランス語・・いろいろ
やってたな。お前と会議に出るときに役立つようにって」
「なんで・・」
「甲子園で肩壊してから、もともと野球選手としての
生命は短いって分かってたんだろうな。だから・・
お前の力になりたかったんじゃねーのか?」
嘘だ、とツナは思った。
これは悪い夢だと、そう信じたかった。
「あいつは待ってたんだ。お前に誘ってもらえるのをな」
『チャンスは一度だけだからな』
そう告げたリボーンの言葉の意味を今初めて理解する。
――嘘だ。
ツナの両目に大粒の涙が溢れた。頭ではリボーンの
言葉が本当だと分かっている。でも。胸の奥が
嘘だ、嘘だと叫んでる。さっきから、ずっと。
「嘘だよ・・」
ツナの両頬を涙がぽろぽろと零れ落ちる。
それは止め処なく溢れ、顔を濡らしていく。
――どうして?
リボーンは何も言わなかったのか。
おそらく山本に口止めされていたのだろう。
無論、彼自身もボスと部下(候補)の問題に
あれこれ口を挟む気はなかったに違いない。
でも。
――それを知っていたら・・俺は・・
きっと、山本に・・告げていたはずだったのに。
そう考えてツナは、はっとした。何故初めから
嘘をついたのだろう。山本の将来を考えて?
――そんなの言い訳だ。
俺が・・山本を信じなかったんだ・・
嘘をついた俺を山本は信じた。いつか真実を
告げられると。そのために、・・ボンゴレに入るために
NYに留学したんだ――俺を信じて。
俺は五年間嘘をつき続け、最後にとびきりの
でたらめを言った。山本を諦めるため、自分についた
嘘だった。彼が日本に戻ってきたら全部嘘がばれてしまう・・
そう思った
俺は慌てて先手を打ったのだ。
――それが大きな過ちだと気づかずに。
呆然としたまま項垂れると、山本がくれた土産袋の中に
小さな箱があるのにツナは気づいた。
英語でロゴの書かれたカラフルなお菓子や
地元の野球チームのTシャツに混じって、
茶色いベロアで包まれたその箱はいかにも場違いだった。
なんとなく開けてはいけない予感がしたがツナは
その箱を手に取る。
震える手で蓋を開けると――真紅のクッションの中央に
ダイヤモンドを三つあしらった小さな指輪が鎮座していた。
眩い光を放つそれにツナは一瞬息を呑んだが
やがてすべてを理解した。
『そっか・・じゃあ、遅かったな』
山本は日本に戻ってすぐ、ツナにプロポーズする
つもりだったのだ。
――なのに俺は・・何て言った?
『俺・・結婚するんだ』
ツナは言葉を失って泣き崩れた。
取り戻すにはすべてが遅く、やり直すには
何もかも終わっていた。
もう山本に会う術も、真実を伝える機会もない。
関係を断ち切ったのは・・まぎれもないツナ自身だった。
慟哭するツナを横目で見て、リボーンは
これでよかったのかどうか、ほんの少しだけ
胸が痛んだ。
窓の下に見下ろす東京の景色はどんどん小さくなり
彼の地で運命は着々とツナを待ち構えていた。
<終わり>