最後の夜 
























談話室の明かりは深夜にも関わらず、煌々と揺らめいていた。
キャバッローネ家の当主でもある屋敷の主人は、絹色に銀の縁取りを飾った封筒を
音も無く閉じると、ため息をひとつ零した。


「失礼致します」
ノックの音と共に部屋に入ってきたのは、この屋敷に住み込みで働く・・
ただ一人のメイドだった。
市場で娼として売られていたところをこの屋敷の主人に拾われ
メイドという仕事を与えられたその少年は、それ以来ずっと主人に尽くすことを
無上の喜びとして暮らしてきた。
その最愛の主人の憂鬱な表情に、特製のレモンティーをお盆に載せた彼の顔色も曇った。
「ご気分がすぐれませんか?」
 伺うように主人の顔を見やると、少年はその手にある淡い色合いの封筒に気づき
顔色を一瞬だけ変えた。
主人に届いた郵便物の中身に、見当がついたからだった。


 キャバッローネ家は代々続く伯爵家だったが、先代の散財が元で
その台所は実際火の車だった。
経済学と経営術を学んだ現当主、ディーノでさえ傾いた名家の建て直しは困難だった。
自分にこころから尽くしてくれるメイド、ツナ以外の従業員を解雇させても
来月にはこの屋敷と財産すべてを売りに出さねばならない程、その財政難は切迫していた。


 名家取り潰しの危機に、家名の存続と汚名を避けるべく浮上したのが・・
ディーノと資産家の娘の見合い話だった。
すでに両家の親族は合意をとりつけており、名目上は娘がキャバッローネ家に嫁ぐ形で
伯爵家の称号を譲り受ける算段は整っていた。
あとは、二人の婚約を世間に発表するばかりだった。
 ディーノは封筒を磨かれた書斎机の上に無造作に置くと
いきなりツナの両腕を掴んでこう言った。
「――逃げよう、ツナ」


 驚いたツナは、お盆の上のカップを落としそうになった。
彼の腕を振り解こうにも、手の中の茶色の液体が零れそうなくらい揺れて
両腕を離すことができない。
「御放しくださいませ・・旦那様」
 ツナは視線を床に落として懇願した。このまま掴まれていれば
心奥底に秘めた思いさえ――揺り動かされ、面に出てきてしまいそうだった。
それだけ、自分を拘束するディーノの腕の力は強かった。
必死に解放を希うツナを無理矢理正面に振り向かせると
彼は藍より青い瞳に燃え滾るランプの炎を映してこう言った。


「今ならまだ間に合う。朝一番の汽車に乗って、港に出よう。それから――」
「世迷いごとはお止めくださいませ、旦那様!」


 そう遮るのがツナには精一杯だった。自分と駆け落ちしようだなんて
キャバッローネ家の当主は毎日の業務に追われとてもお疲れなのだ
――と、彼は自分の中で理由付けた。
逃避を提案された時に胸の中を沸きあがった気持ちには、けして覗かぬよう重い蓋をした。
彼を地獄に連れて行くわけにはいけない――この地を離れるのは、自分だけで十分だった。


「地位も名誉もいらない。ツナさえいてくれたら俺は――」
「いけません、旦那様!」


せり上がるようなディーノの言葉に、思わずツナは叫んだ。
彼はその腹の底から湧き出たような声に、一瞬蒼い瞳を見開き
まじまじとツナを見た。信じられない、といった表情だった。


「幸せになってください・・旦那様。それが私の唯一の願いです」
「・・ツナ」


 涙を浮かべたツナの両腕を離すと、彼はなす術も無くその前に立ち尽くした。
朝一番に届いた電報は、二人の婚約会見の招待状だった。
一流ホテルを借り切って行う発表は、贅をつくしたパーティになる予定だった。
明日の午前十時、会ったことも無い女性と婚約を交わすこと
――それが、キャバッローネ家を存続させる唯一の手段だった。


「私は旦那様の幸せを永劫、祈り続けております・・」


 声を霞ませながら深く礼をするツナを、彼は力のままに引き寄せ、抱きしめた。
ツナの手からひっくり返ったお盆とティーカップが落ち
深紅の絨毯には濃い赤の染みが円状に広がる。


 煙草と、香水の香りがする灰色のストライプが入ったシャツに顔を埋めると
・・ツナは声を殺して泣いた。
彼の腕の中にいられるのは・・これが最後の夜だった。


 栗色の柔らかい髪を何度も何度もなぞる様に梳きながら
彼は汗の滲んだツナの小さな額にキスをした。


 愛している、と告げることが・・どうしてもできなかった。