そして俺は恋に堕ちる。
満開の桜の下で。
[ 桜色幻想 ]
日本に降り立ったとき、空港を渡る風は思いのほか寒かった。
迎えに呼んだハイヤーに乗り込むと、懐から秘密裏に持ち出した
地図を取り出す。薄ねずみ色に、藍色の瞳を携えた少年は
くわえていた煙草を灰皿に落とすと、口元に笑みを浮かべた。
無断でイタリアを出国したのは、昨日のことだった。リボーンが
ついにボンゴレの後継者を見つけ出したという一報を受け、こっそり
チャーターした専用機に飛び乗った。ミラノでも有名な財閥出身の彼なら
造作もないことだった。
少年の目的はただひとつ――ある子供を殺すことだった。
彼は13歳にして、巨大なイタリアマフィア・ボンゴレファミリーの
一幹部となった有名な出世頭だった。その背景にはもちろん彼の血筋と
豊富な財力が絡んでいたが、実際マフィアの世界は実力がすべてだった。
自力で取得した爆薬の知識と技術、その破壊力をもって彼はボンゴレで
台頭を遂げた。標的を容赦なく爆破する残忍さもファミリーで高く評価されて
いた。実際彼に爆破され消滅したマフィアの支部は、軽く20以上あった。
彼は敵対するマフィアの中でも最も恐れられる男の一人だった。
そんな男が何故こそこそと日本の、しかも田舎のある街に慌てて潜入する
ことになったか。発端は二ヶ月前――彼のボスであるボンゴレ9代目の急な
病状悪化にあった。
ボンゴレ9代目は聡明だったが、病弱なのが唯一の欠点だった。
疾病治療に専念するため、一線を退いたものの彼が病院のベッドで下す判断は
院政として恐れられていた。しかし、二ヶ月前彼は原因不明の症状悪化に
より話すこともできなくなった。
慌てたのは幹部連中だった。何しろ9代目は後継者を指名せず、またその子供
達も熾烈な跡取り争いによりことごとく死別していたのだ。
このまま9代目にもしものことがあれば――ボンゴレの将来に関わる、そう
懸念した幹部達はある男に事態の収拾を依頼した。
やんごとなき事情で極秘にボンゴレに呼びだされた男が、マフィアの世界では
伝説と呼ばれる殺し屋リボーンだった。もともと9代目とは古馴染みであった彼は
二つ返事で依頼を引き受けた。彼の持ち出した打開策は、9代目の直系にあたる
落し胤を見つけてくることだった。
幹部連中はその事実に驚き、また反対した。が、9代目の血筋でない人間を
後継に当てるのはいささか困難だった。誰を選ぶかによっては、ボンゴレ分裂の危機も
孕んでいたのだ。
結局リボーンの主張は通り、すべては彼に委ねられた。そして二ヵ月後ついに
彼はその運命の子供を、見つけ出したのだった。
その事実を入手し、慌てたのは例の爆弾魔の少年だった。日本で
見つかったという9代目の遠い子孫は、自分とそう変わらない子供だという
噂だった。そんなぽっと出の、しかもマフィアとは全く関係のない東洋人が
ボスの座につくなど、彼にとっては耐え難い屈辱だった。
少年はリボーンがその子供をイタリアに連れてくるより早く、10代目候補を
殺してしまおうと考えた。あわよくば、自分が10代目候補として名乗りを上げたい
野望もあった。その方がファミリーだってうまくいくと、彼は思っていた。
リボーンの側近を脅して手に入れたリストには、候補者の居所が示してあった。
運転手にその住所を伝えると、少年はほくそ笑んだ。
もしかしたら、将来のボンゴレ10代目は俺かもしれない、そう思うと
笑いが止まらなかった。
「なんだよここ・・」
少年の第一声は信じられない、という声だった。ハイヤーが乗りつけたのは
郊外に位置する小高い丘の上だった。
その真ん中に桜の大樹がそびえたち、咲き誇る花弁がちらほらと舞う様は
まるで季節外れの雪のようだった。
くそっ、と少年は地団駄を踏んだ。リボーンに嵌められたのかもしれなかった。
自分の手に入れた情報が虚偽のものだとしたら、ここに来たのも
イタリアを飛び出したのも無駄足だった。
本当にここなのか、と運転手に凄むと、彼は無言で頷いた。眼下に広がる
住宅街を見ながら少年はため息をつき、煙草に火をつけた。
こんな人気のはい場所のどこに、10代目候補がいるというのだろう。
日本のどこかにいるというその子供を探し出すのは、文字通り
雲を掴むような話だった。
「ここは、禁煙だよ」
弾むような声がして、彼は振り向いた。桜の下に立っていたのは
自分とそう年の変わらない日本人の少年だった。
真っ白なシャツに、洗いざらした色のジーンズ。栗色の髪と、色素の
薄い瞳。生粋の日本人ではなく、別の血も混じっているようだった。
にこりと笑った少年の儚さに見とれて、彼は思わず煙草を落しそうに
なった。まさか眼の前にいる少年が、リボーンの見つけ出した後継者とは
思えなかった。
満開の桜の幹に手をつき、眼を細めて空を見上げる様はこの世のものとも
思えないほど美しく――彼には、その少年がまるで春の気が作り出した
桜の精のように見えた。