――どこから来たの?
「イタリア」
――ずっとずっと遠い所?
「そう・・多分」
――何のために?
「ある人間を殺すために」

 物騒な話だね、と彼は笑った。微笑みの向こうで惜しみなく散る桜は
過ぎ行く春を告げていた。

 俺は一瞬・・ここへきた本当の目的を忘れそうになった。



[ 桜色幻想 (二)]



 無機質な天井を見上げると、彼は付けっぱなしだったテレビの
電源を消した。部屋に広がる沈黙の中で、昼間の出来事を思い出す。

 肝心の後継者は見当たらず、探し出した場所で出会ったのは
名も知らない少年だった。
 満開の桜のたもとで彼は、その少年と二人並んで取り留めの無い話をした。
どんな話を交わしたのか、なぜかぼんやりとしか覚えていなかった。
 ただ、少年は彼の話を嬉しそうに聞いた。自分の知らない世界のことを
知るのが、楽しくてたまらないようだった。

 話しながら、彼は自分の人生を反芻した。親に反抗して家を出、自力で
マフィアになった。確かに他人が羨むであろう富も、栄光も手にはした。自分の
眼の前には前途洋々たる未来が広がっているはずだった。
――9代目の例の事件が起きるまでは。

 くわえていた煙草を離すと、彼はふうと煙を吐いた。輝かしい出世の果てに
どれだけの血が流れたか。手に入れた地位は、明日にでも覆る寄る辺無いものでも
あった。
 後継者抹殺計画が頓挫した今、何もかもが虚しかった。

 何のために人を殺し、味方さえも欺き、闇の世界でのし上がってきたか。
理由は明快だった。レールに敷かれた人生に嫌気がさしたのだ。親父の財閥を
継ぐ気も、ピアニストになる気もさらさらなかった。
 ただ、自分の人生を切り開いてみたかった。

 確かに彼はそれを成し遂げたのだ。ボンゴレという名の砂上の楼閣で。
そしてそれは今、いともたやすく崩れ去ろうとしている。
 明日イタリアに帰れば、会った事も無い上司が自分に命令を下すのだ。
日本に極秘で飛んだ理由が知られれば、現在の地位を追われるかもしれなかった。
それはこの業界に身を投じたものの定めでもあった。

 自分の血と硝煙に塗れた、ちっぽけな人生を捧げるべき存在は
何処にも居ない。信念など、この薄汚れた世界では役に立たない。
 9代目は実力至上主義者でもあり、そういった意味では自分を高く
評価してくれた。今度ボスの座につく男の一存で、自分の去就は決まるのだ。


 彼は眼を閉じて、薄紅色が咲き乱れる背景を思い描いた。たとえ罠に嵌められた
としても、たどり着いた場所は心安かった。
 ふわりと舞う桜の様に微笑んで、自分を見つめる少年。彼は何者だったのだろう。
現地の子供か――それにしては肌も真っ白で血の気も無くて、およそ人間とも
思えないくらい存在感は希薄だった。
 それは春の気まぐれな空気が見せた幻、なのかも知れなかった。そのときの自分は
半分やけっぱちで、いろいろ愚痴めいたことも少年にもらした気がする。


――俺が明日のたうち回って死んだって、次の日には別の奴が俺の屍を踏んで
生きていく、そういう運命なんだ。


 路地裏で野垂れ死にそうになっていたのを、拾われた人生。あれからたくさんの
ものを手にしたが、初めから自分はゼロだった。いつそれが無に帰されても
文句をいうつもりはなかった。
 最初から、他人を踏みにじる生か、あっという間の死だけしか・・
その背中には無かったのだ。

 明日にはイタリアの空を舞う、灰になってるかもな、と彼が言うと
少年は驚いて・・少し悲しい顔をした。



『もしそうだとしたら・・俺、きっと泣くと思うよ』



 少年の言葉を思い出した瞬間、彼の頬を熱いものが通り過ぎた。
家を出てからは零したことの無い・・一筋の涙だった。