舞い落ちる薄紅色の花弁よりも儚い微笑と
その存在の暖かさに魅せられて・・
満開の桜の下で出逢う運命に囚われる。
貴方のために生きたいと言ったら笑いますか?
[ 桜色幻想 (三)]
彼は迎えに来たハイヤーを飛び降りると、例の桜の
元に駆け出した。イタリアに戻る前に、もう一度だけあの
少年に会いたかったのだ。
特に何をするわけでもなく、話すこともなかったが、
ただその姿を一目見たかった・・おそらく日本に来ることはもう無い
と彼は直感していた。
すでに散りかけた桜の袂に立つと、眼下の
住宅街が朝焼けに反射し、きらきらと刺すような光を
放っていた。彼はあたりをきょろきょろと見渡し、
桜の周りをぐるりと一周したが、ついぞ例の少年は
見当たらなかった。
既に青葉の付いた桜の枝から空を覗くと、彼は
ふぅとため息をついた。
そのままするすると樹の幹に腰を下ろし、ポケットから
取り出した煙草に火を付ける。
禁煙、と注意する少年は何時間経っても現れなかった。
イタリアへのチャーター便の出発を知らせに来た運転手に
頷くと、彼はハイヤーに飛び乗った。
見えなくなるまで、彼は桜の樹を後部座席から眺め続けた。
せめて一言、別れを言いたかった。
窓の向こうで小さくなっていく摩天楼を眺めながら、彼は
昨日の出来事を思い描いた。
あれは自分の過ぎた野望が見せた幻だったのだろうか。
だとしたら、少年の存在に一瞬でも救われたのは自分のほうだった。
それは欲と血と闇にまみれた人生に刺した、僅かな光と言っても
よかった。
命をかけるべきものをずっと、間違えていたのかもしれないと彼は
思った。
もう一度やり直せるのなら、あの光の下で生きてみたいと彼は思った。
それはもちろん――闇に染まったこの身では叶わぬ願いだった。
「随分遅かったな」
空港で彼を迎えた黒いスーツの男は、トレードマークの
帽子を風で吹き飛ばされないよう、右手で押さえながら
話しかけた。
「見つかったのか?10代目は」
男にそう言われて――彼はばれている、と直感した。
自分の極秘の日本行きも、その目的も。
いいえ、と彼が頸を振ると男は残念そうに呟いた。
「そうか・・お前が連れてきてくれると
思ったんだけどなぁ」
「・・リボーンさん?」
男の真意が掴めず、彼はその名を訝しげに呼んだ。
イタリアに戻れば、何らかのお咎めが自分に下るのでは
ないかと考えていたが、どうやらリボーンは彼の帰りを
待っていたようだった。
「まぁいい。行くぞ、獄寺」
リボーンが親指で示したベンツに乗って、二人は
空港を後にした。その行く先はボンゴレ本部ではなく
――ミラノ郊外のある診療所だった。
「なんなんすか、ここ・・」
獄寺は白い廊下をいくつか曲がりながら、隣を
淡々と歩くリボーンに問いかけた。そこは普段負傷した時に
使う病院とは違う、ただの療養施設だった。
何度か分厚いドアを抜け、際奥の特別室までたどり着くと
リボーンは他の部下を外に待機させた。
中にいるのはいわゆる重要人物らしかった。
リボーンに手招きされ獄寺はそろりと病室に入った。
中央には真っ白なベッドが鎮座し、そばのテーブルには薔薇が
行けてあった。ベッドの奥ではためくカーテンは、柔らかな風を
室内に運んでいる。
そのベッドに寝ている人間の顔を見た瞬間、獄寺は真っ赤に
顔を染め上げて絶句した。
おだやかな笑みをたたえて眠るその人物は紛れも無く・・
――桜の下で出会った栗色の髪の少年だった。
これは夢か、と獄寺は頬をつねったが鈍い痛みが顔面に
広がるだけだった。
言葉を失った彼を一瞥したリボーンは、淡々と告げた。
「こいつが10代目だ。俺が見つけ出した時には
既にこころを失っていたがな」
残念そうな声だった。彼が目覚めなければ、ボンゴレが
跡継ぎを巡ってお家騒動を起こすことになるのは必死だった。
それがマフィア業界全体に与える影響を、彼は懸念したのだ。
――貴方が、10代目だったんですね・・
獄寺は喉の奥まで浮かんだ言葉を飲み込んだ。リボーンの残した地図は
あながち出鱈目ではなかったのだ。
確かにあの時、10代目はそこにいた。獄寺は彼と会話さえしたのだ。
桜よりも儚げな笑みを浮かべる、桃色の頬を。
舞い落ちる花びらの下で佇む、妖精のような姿を。
――獄寺ははっきりと脳裏に思い浮かべることが出来た。
すべては幻であり、獄寺にとっては真実だった。
獄寺は少年の細い左腕を取ると、その白い手の甲に
そっとキスを落とした。たとえ目覚めなくても、生涯の
忠誠を誓うつもりだった。
「また、煙草吸ったでしょう?」
囁くような声がして、獄寺は顔を上げた。
真っ白だった顔には生気が戻り、薄茶色の瞳が自分を
まっすぐに見つめている。
悪戯っぽく微笑む薄紅色の頬も、起こした体の華奢な
ラインもすべて――夢ではなかった。
「一生・・禁煙します」
獄寺は床に膝をついて、少年を仰いだ。涙で霞んだ視界の
向こうで、確かに彼が笑った気がした。
白と静寂に彩られた病室と、咲き誇る薄紅色の春の使者を
結んだもの・・
――それは灰色の香がきまぐれに起こした
たったひとつの、奇跡。
<終わり>
(獄ヒット部屋より再録)