[ 地中より空へ ]
――手が出たらしい。
そう担任が告げたのは、紅葉も色づきかけたある秋の日だった。
発言の後クラス全体がざわめいた。囁く声の嵐が去った後、担任は
これから彼の通夜に出席する、と言った。下校時に記者に囲まれても
他言は無用と付け加え、彼は落ち着かない空気の流れる教室を
後にした。放課後までは自習となったが、生徒達の動揺は直ぐには
消えなかった。
見つかったのは一週間ほど行方不明だった体育教師の手の平だった。
それが部室棟の奥の畑と藪の間から、雑草のように生えていたのだ。手の
先には腕が、胴体が、頭と四肢があった。体育教師榎本は、死体で発見された。
どうみても殺しに近い事件を、教師と生徒達は口を紡いで隠蔽した。
それだけ悪評の高い男だった。女生徒へのセクハラと気に入らないものへの体罰、
好き勝手につける通信簿の査定に、親から何度か苦情もきた。彼の
親が教師の学閥でも有数の権力者だったために、校長でさえその素行を
注意できなかった。竹刀を肩にかけ闊歩するその姿にある生徒は深く敬礼し
あるものはトイレに逃げ込んだ。並盛という小さな井戸の、蛙のようなボス
だった。
その問題教師が――誰も近づかない荒れ果てた裏庭で、土の中から
発見された。見つけたサッカー部員はたまたまボールを捜しただけと
いうが、地中から突き出した手のひらに腰を抜かした。気味の悪いオブジェだと
思ったのだ。よくよく近づいてみると、それはところどころ腐って皮膚が
剥げ落ちていた――目の前にある五本指が人間のもの、と気づいた瞬間
悲鳴と鳴き声が職員室まで響いた。
駆けつけた教師がそれを掘り起こし、榎本の顔が出てきた瞬間彼らは
110番を取りやめた。殺人事件の風評は、少子化が進む昨今学校にとって
致命的なマイナスイメージとなる。まして、変わり果てた姿で見つかったのは
同校の問題教師だ。教師達は彼の失踪届けを取り下げ、内内に式を済ませて彼を
送った。誰もが彼を――この世とは違った場所に送った人物に感謝していた。
クラスメイトからそう話を聞いたときツナは
「怖い話だね」と言った。白いカーテンがたなびく病室の
ベッドの上でだった。例の教師から叩きつけられた竹刀が
運悪くツナの頭を直撃したのだ。幸い骨には異常がなかったものの
昏倒したツナはそのまま病院に運ばれた。一過性の脳溢血だった。
「――罰が当たったんじゃねーのかな」
山本は答えてから、肩にかけていたスポーツバッグを床に下ろした。
受けたショックで一時的に記憶を失ったツナは、しばらく学校を
休んでいた。授業のノートを持参して彼は毎日ツナを見舞った。
頭痛もおさまり、ツナは少しずつではあるが回復の兆しを
見せていた。その最中の惨事だった。
「・・どうして手だけ、見つかったのかな?」
さぁ・・、と山本は言って「そんなことより今日の数学やろうぜ?」と
教科書を捲った。ノートと鉛筆を持った彼の指がひどく汚れていてツナは
まじまじと山本の大きな手を覗いた。日焼けした褐色の肌とごつごつと
角ばった関節、爪に食いこんだ茶色の――
「・・野球部は大変なんだね」
ツナが言うと山本は「まぁな」と言った。
「毎日泥まみれだよ」
ふぅん、と頷いて二人はそれから黙々と方程式を解いた。例の可哀相な
最期を遂げた教師のことはそれきり忘れてしまった。
爪に食い込んでいたのは彼を埋めた時にささった裏庭の痩せた土だった。
そもそもあれは事故だった。どうして何の落ち度もないツナを殴ったのか
彼が詰め寄ったとき例の教師はうそぶいた。素振りをしていた、といい加減な
ことを言った。おもわず殴りかかろうとした瞬間、彼の拳をよけた教師は
階段から足を、踏み外した。落ちていく瞬間地獄のような唸り声がした。
黄泉の住人が教師を、彼のいるべき場所に引きずりこんだのだと、思った。
山本が正気を取り戻した瞬間、榎本は階段の踊り場で冷たくなっていた。
それから、何をどうしたのか。山本もはっきりとは覚えていない。
ただ自分の倍もある巨漢をおぶってひきずり、誰にも見つからないように
裏庭に運び穴を掘って埋めたのは確かだ。口論したのが体育館の非常階段
だったのが幸いした。
あのとき爪の間に食い込んだ土は何度洗っても落ちないが、そんなものは
鑑定にかけられない限りは分からない。肝心の榎本は今日荼毘にふされた
ばかりだ。
もしかしたら、と彼は推測する。もし教師があのとき一種の仮死
状態であれから再び眼を覚ましたとしたら、ここにいるツナのように
意識を取り戻したとしたら――生きようと手を伸ばしたのかも
しれない。ただ、彼の上にあったのは病院の明るい照明や
人工呼吸器ではなくて、暗い重い土の蓋だったと言うだけで。
数々の生徒を不幸した男は自分にかけられた土の多さに
絶望を感じたのだろうか。地上にまで手を伸ばして彼は、絶命した。
もういちど空を知る前に。
「・・早く元気になって、山本の野球みたいな」
ツナがぽつりと言ったので彼は笑顔で頷いた。
最愛の人が笑顔を取り戻して応援に来てくれるまでには
4番のユニフォームもらっておこうと、心に誓った。
冬が来るまでの間何度か雨が降り例の土壌を
洗い流してくれれば自分の爪に食い込んだ罪の証も
少しは薄まる気がして山本は、窓の向こうの夕暮れを
眺めた。
藍に緋が差す暗い空の向こうに、神々しく輝く太陽が
ゆっくりと落ちていた。