[ それから ]
彼が消えたのは次の日の朝だった。骸はいつもの通りにドアをノックし
それを開けた。天使が寝ていたはずのベッドはもぬけの空だった。ここに
きてからすっかり大人しくなっていたので、監視を緩めた直後だった。
犬は何かのチャンネルで彼を探しましょうか、と提案したが骸は
自分が行くと言った。珍しく動揺を表情に見せた柿本も、依頼されれば
捜索に参加しそうであったが、骸は二人を押し留めた。
「・・これは、僕と彼のことですから」
主人がそう言うなら仕方が無い。二人は頷いて城に残った。ツナはもはや
人質でも玩具でもなく、この家の立派な住人だった。
逃げだしたのが昨夜ならそう遠くへはたどり着けまい。まして漆黒の森の中。
――そういえば、彼と初めて出会ったのもこんな森の中だった。
骸はくすりと笑いながら森の中を進んだ。二人でよく探索したルートだった。
逃げるときは本能的に見知った道を用いる。彼の行く先は大体見当がついた。
森を抜けるとその先に切り立った崖とそれを結ぶ鉄橋が存在する。
街へ抜けるにはそこを通るしかない。
行き方は教えていないが、最上階の眺めなら検討は付くだろう。骸は追跡をやめ
先回りをすることにした。木々の間を掛けていくと、林の隙間に見慣れた茶色の
髪が揺れていた。彼だった。
骸が近づくと、ツナは顔面を引きつらせた。恐怖に怯えた表情はこんな時でも
美しかった。座り込んだ足の膝の頭に血が滲んでいる。ばい菌でも入ったら大変だ、と
骸は思った。駆け出そうとした彼に、ツナは震える声で言った。
「――近づかないでください」
「・・でも、怪我をしています。手当てしないと」
ツナは首を振る。こんなに聞きわけがよくないのも珍しい。その時骸は初めて
気づいた。もし、あの時――彼の洗脳が解けていたと、したら。
昨夜のやり取りの中で彼の望むことを己が口走ってしまったと
したら。
意図的な催眠はかけていない。が――この目は常時見続けると、
脳の被暗示性を高める作用があった。
共に過ごせば過ごすほど、自分に従順になる。部下はそうやって
従えている。彼はじっくりと自分の色に染まっていった――はずだった、が
もしあの時の言葉が、彼の望むものだったとしたら、眼が覚めたときすべての魔法が
解け、彼は己の立場に気づいたに違いない。ボンゴレ十代目としての。
「――行くのですか?」
骸の問いにツナは視線を落とした。答える唇は真っ青だった。
「・・帰らなくては・・――俺は、ボスだから」
瞼を下ろす瞳が濡れている。逃げ切れるわけもないと知りながら
眼が覚めたらいつのまにか走り出していた。このまま此処にいることが
怖かった。自分はボスとして望んではならないことを願った。何の報いも
受けずここにいたいと祈った。だから――
骸は林を遮ってツナに近づいた。立ち上がろうとする彼の肩を押し、背中を
木の腹に押し付ける。彼の右手はしっかりとツナの喉もとを捕らえていた。
「・・逃げるのなら君を、殺さなければなりません」
青と赤の目が見つめる。最後の審判を下すように。
「――僕はね、もう正直ボンゴレなんてどうでもいいのです。君と過ごすのは
なかなか楽しかった。どうしても彼らのそばにいたいというのなら、君の
死体を届けてあげますよ」
それくらいなら約束できます――と骸は言った。悲しく瞳を閉じて。
催眠をかけるつもりは、無い。目を開けていればまた彼は自分に堕ちて
いくだろう。それは恋でも愛でもないただの、刷り込みなのだから。
彼はそっとツナから手を離した。両目は閉じられたままだ。ツナは
起き上がって咳をした。先程まで自分の首を捻られてしまいそうなくらい
右手に力が入っていた。
「・・逃げてください。僕が目を閉じているうちに」
言葉の真意を確かめるようにツナは骸を覗いた。彼は自分を殺そうとしているのか
逃がそうとしているのか。
「もう一度出会ったら、僕は君を殺します」
――両方だった。
胸の奥でゆっくり100まで骸は数えた。風に草葉が揺れる音がした。
どこまで逃げても追いかけるつもりは無い。出会うことがあるなら、あの細い
首を掴んで、右手の指先に力を入れるだけだった。
深呼吸をしてゆっくり目を開けると――目の前にツナは座っていた。
血の流れる膝もそのままに、正座をして。
「・・殺されるなら今が・・いいです」
骸はきょとんと彼の両目を見た。何かが心臓を突き抜けた。それは胸から一瞬にして
脳天を貫いた。雷を落とされた気分だった。
彼は大笑いをした。腹がよじれるくらいだった。こんなにおかしいのはひさしぶりで
どきどきして自分がおかしくなりそうなのは初めてだった。ツナは面食らった、骸が
腹をかかえて笑い出したからだった。
「そうですね・・じゃあ、殺したくなったら、殺しましょう」
そんな日は、一生来ないと思うけれど。
骸は立ち上がって、座り込んだツナを抱き上げた。彼は声を上げたが骸は
気にしなかった。どのみちこの足で城まで戻ると日が暮れてしまう。
「・・む、骸さん・・!」
「帰ったら、手当てをしましょう」
骸は両目を細めてツナに言った。彼の顔は膝小僧よりも真っ赤だった。
それから――遅めの朝食を取って、シャワーを浴びて、ゆっくり愛し合えば
いい、と彼は思った。
恋を刷り込まれたのは、おそらく自分の方だった。