世界を抱いたはずだった。
***
そのお客がやって来たのは午後二時を過ぎた頃だった。
ちょうど昼時のピークを越えた頃合いで、山本は額に滲んだ汗を
手の甲で拭いながら「らっしゃい!」と言った。寿司を握って
いたので正面を向くことは出来なかったが、引き違いの格子戸を
開けて暖簾をくぐった男がどこか尋常でない空気を放っていたことには
気づいていた。わけありの客は暖簾を越えた瞬間に分かる。
大トロを木台に乗せると、彼は初めて正面を見た。立っていたのは
よく知るクラスメイトに似た、小柄な青年だった。
「・・来ちゃった」
はにかんだように笑うと、青年は山本の前のカウンターに腰掛けた。
白いスーツに身を包んだ堅気でない空気の青年に、店に居た客の視線が
注がれたが、その男はそれをむしろ背負うくらいの存在感を放っていた。
これが、十年前さんざん馬鹿にされていた「彼」なのか――?
彼はお品書きを一瞥すると、全部頂戴、と言った。
「それから、俺をここに置いて欲しいんだけど――」
上目遣いに差し出された金色のクレジットカードは、指紋ひとつ
ついていなかった。
「暗証番号は俺の、誕生日だから」
さらりと男は付け加えて、今山本が握ったばかりの大トロを摘んで
口に運んだ。ものを食する姿さえ威圧感があった。
山本は彼の注文のまま黙々と寿司を握った。トロ、海老、貝、いくら・・
何を乗せたかさえ、忘れてしまった。自分の握った寿司を黙々と食べる彼の
様子を眺めながら山本は、戸が開いた瞬間に背筋を駆け抜けたものの名前を
知った。
血の気が引くような悪寒だった。
[ こわれるまで ]
最後の客を見送ると、山本は掛けていた暖簾を下ろした。
萌葱色に白く「竹」と染めぬかれた特製の絞りは二代目の
就任に合わせて京都の職人に注文しこしらえたものだった。
それを格子戸にたけ掛けてから、店を見渡し忘れ物が
無いのを確認すると、彼は二階へ続く階段を上った。
カウンターの奥が厨房、突き当りには小さなトイレがある。
寿司屋「竹」は彼の祖父が創業した魚屋から、初代である
その息子が興した小さな料理屋だった。出すものは産直の
季節もの、握るのはその道一筋の頑固親父、とあって
商店街の端の小さな店は繁盛した。品質と味を
認めた固定客を掴んだことも大きかった。
彼の息子である二代目が後を継いだのは初代の急逝が
原因だった。末期の癌だった。息子は野球のホープだったが
中学卒業と同時に、寿司職人の道に進んだ。父親に弟子入りして
十年、丁稚あがりという程の腕前で彼は暖簾を継いだ。そうするしか
手がなかった。
もともとの器用さもあってか、彼の握る寿司は若いものの勢いが
あった。見た目の精悍さも手伝って、二代目を迎えた「竹」はまずまずの
手ごたえを感じていた。そう思っていた矢先の、彼の来訪だった。
二階に上がると山本はふぅ、と息を吐いた。4時に店を一度閉めてから
再び暖簾を掛けるまで3時間、仮眠を取るのが日課だったが今日ばかりは
そんな余裕は無い。
ドアを開けると部屋の中央で例の客が行儀よく正座していた。山本を見るなり
青年は微笑んだ。十年変わらない破顔だった。
山本はその時初めて青年の名前を呼んだ。彼がそうであるという確信を抱いて。
「・・ツナ」
「お疲れ様。ごめんね・・先に上がらせてもらって」
ツナは膝を片方立てて立ち上がった。所作のひとつひとつが流れるようだ。
山本は促されるように、その前に胡坐をかいて座った。仕事着である作務衣から
酢と生臭い匂いがしたが、着替えている暇は無いだろう。
向かいに鎮座するツナは、外見は恐ろしいほど違いが無く、
声も驚くほど高く、唯一変わっていたのはいつも寝ぐせだらけだった髪が
しっかりと整えられてあったことだけであった。
それでも一見したとき彼であると確信できなかったのは、彼が持つ異様な
空気ゆえだった。希望と絶望を足して二で割り、血で薄めたような
圧倒的な悲壮感と、寂寥感、人生の酸いも甘いも知り尽くしたような笑み。
十年別れて暮らしただけでどうしてこんなに質の違う空気を纏えるものなのか。
本当にこいつは、あの・・ツナか?
山本はしばらくツナと自分の拳骨を交互に眺めた。目の前にある現実、今
思い起こす過去。繋がらない、なにひとつ重ならないなのに、あの日
涙で肩を押して別れたクラスメイトが今、目の前に座って自分を
見つめている。
ツナは、今訳あって逃げている、ほとぼりが冷めるまで
ここにおいて欲しい、と言った。その声でさえ現実か、自分に都合のよい
幻なのか分からず、返事の無い山本の額からどっと汗が流れた。寒気が
通り抜けた背中は、汗が円を描くように滲んでいた。
(続きます)