沢田綱吉について山本武が知りうるところは二つだけだった。
時にダメツナ、と揶揄される程優れた箇所もなく、それ以外は目立たない
クラスメイト。もう一つは、眼が合ったときにふいに見せる屈託のない笑顔。
さんざん馬鹿にされてもツナにはそれを負い目に感じる部分が見られない。
むしろそれを受け入れている節さえあった。かといって自らを駄目人間と
卑屈になるのではなく、そう呼ぶ輩に苦笑してふわふわと教室を浮いている
ような存在だった。馬鹿にされてもいじめに合わなかったのはそのせいかも
しれない。
一度女生徒からの告白現場を、ツナに見られたことがある。
野球の練習が終わった後、蛇口から水を飲んでいるところを、声をかけられた。
二つに髪を結わえたなかなかに可愛い子だった。
告白をしてくる女子はみんな上目遣いで好きなの、と言う。そこから先は
言わない。付き合ってくれとも、キスして欲しいとも。思いを伝えるだけで
いいという純粋さは時に残酷だ。好きといわれたところで何か望んでいる
わけでもないのなら。
山本は頭をかいて、ごめん、と言った。その時たまたま植え込みの向こうを
歩いていたツナと眼があった。通りかかったのは偶然だろうが、先程のやり取り
も聞かれていたのだろう。その瞬間頭をよぎった思いを山本は、かき消した。
どうして自分が焦りを覚えるのか分からなかった。
謝ってから山本は後悔した。目の前の女子は泣いていた。思いを伝えるだけで
いいのに返事をすると泣かれる。それが面倒くさいから何度か付き合ったが
結局何のためにそばにいるのか分からなかった。男として不能というわけでなくても
唇に触れたり肩を抱いたって何も――変わらない。そのうち女のほうから何かを
見切って去るようになった。今でもその癖は直らない。
その時も山本は焦った。泣かしたことだけでも明日の教室は大騒ぎだ。余計な
ギャラリーが増えるのは野球の練習の妨げになることを、山本は一部員として
憂慮していた。ただでさえ山本の打席は黄色い声が飛んで騒々しいのに、振った
ことで逆恨みされてブーイングが増えるのは憂鬱だった。
ごめん、俺好きな子がいるんだ。咄嗟に彼は続けた。その時草陰の向こうの
彼がふっと何かを瞳に浮かべた。落胆か、寂寥感か。山本にもわからない。
ツナ、と呼ぼうとしてから山本はそれが遅かったことに気づいた。既に彼の
影は草木の向こうに消えていた。彼女を納得させるためだけの出任せだったのに。
それを――ツナに見られたことが何故か山本の胸を抉った。その答えを10年
出せないままでいる。
10年後。
再び彼はツナと向かい合っていた。両手でしっかりと湯飲みを持ち
ごくごくとお茶を飲む姿は、横幅は細くても貫禄があり、20センチ以上
背の高い山本を圧倒する勢いだった。
「・・お店、繁盛してるみたいだね」
湯飲みから口を離すとツナは言った。熟れた果実をした唇が濡れている。
「一人でやってるから――大変だよ」
ようやく膝を崩した山本は、汗をかいた額を拭いながら答えた。心臓だけが
嫌に大きく響くのは緊張しているからだ、と彼は思う。
緊張?どうして――?
目の前にいるのはそう、あのツナじゃないのか。
山本は自問自答してふっと笑った。あんなに存在感の無かった男が
異様な雰囲気をかもし出して来店したのだ。そして自分の知っている事情では
彼はイタリアでは三本の指に入るマフィアのドンだった。緊張しないはずが
ない。そうこれは至極――当たり前のことなのだ、と自分に言い聞かせた。
緊張していることをツナに悟られるのが怖かった。
「何か・・俺に手伝えることはないの?」
聞かれて山本は正面を向いた。10年前の屈託のない眼がそこに
ある。彼は面食らった。この男は10年前と今を驚くほどの速さで
行き来する。いや、自分がそう感じているだけなのかもしれない。
それが「ツナ」なのかもしれない。
「だって俺を置いてくれるんでしょう?」
歌うように問われて彼は瞬きを忘れてツナに見入った。
10年前は気にも留まらなかった男が、極上の笑みを浮かべている。
頂上に立つと人間はこうも素直なほど貪欲になれるものなのか。
それとも自分がいつのまにか地平よりも下に暮らすように
なったのか。
山本はツナと畳を交互に見てから「狭い部屋でいいのなら」と
答えた。二階は八畳の和室とその半分の物置、風呂とトイレで
構成されていた。ツナを二階において、自分は下で寝ればいいと
彼は思った。汗は引いたが鼓動が消えない。むしろ先程よりも
激しく強く管を叩き続けている。
山本は「じゃあ俺これから仕込みに入るから」と言って
立ち上がった。同じ部屋の空気を吸うことさえ胸を圧迫した。
「俺は――」
「ツナはここにいればいいよ。疲れただろ」
少しゆっくりしたらいい、と言うと一呼吸置いて
幾分小さな声がした。
「――ごめんね、無理ばっかり言って」
その言葉の弱弱しさに山本はもう一度座って全て
問い正したくなった。向こうで何があったのか。
何に逃げて此処まで来たのか。
どうして俺の家を選んだのか。
疑問は幾らでもあったが肝心なことに触れるのを
山本は本能的に避けた。恐怖が度を越えると高揚感に
変わることを――彼は心臓が打つ音の大きさで知った。
何かが確実に胸の中で生まれようとしていた。