ツナが消えたのは次の日の朝だった。いつもなら厨房に水の流れる音がすると
言うのに山本が起きたとき一階は無音だった。静まり返った厨房に足を踏み入れると
山本の瞳から何かが溢れた。それは後悔だったか涙だったか。山本は両目を擦ると
萌葱色の暖簾を掲げた。陽が上るまで黙々と、まな板、包丁を洗い鮮魚の鱗を剥がす。
寿司処はかつての盛りを取り戻すようになった。ある客は軽みが出た、と言った。
味に負い目が無くなったという意味だった。山本自身は分からなかった。
師匠が頷くまで包丁ひとつ握らせてもらえない世界だ。
寿司の味を知るには十年早い――それを判断するのはひとえにお客の舌だと
散々言い聞かされてきた。
もともと常連で持っていた店だったので、味が良くなれば再び人は集うようになった。
憑き物が落ちたよう、と客から称されて山本は頭をかいた。
ツナと過ごした日々は悪夢だったか――いや、違う。
何かを追い求めて、追い詰めて暮らした。愛することと確かめることに必死だった。
それが自分自身をも追い込んだ。彼を知らなければまた、知ることも無い己の弱さだった。
あれは夢だったのか、と山本はときどき考える。
しっかりと、白米を握りながら。生きることなら一人でも出来る。
傷つけあうことは、二人じゃないと出来ない。
濃密な日々を過ごす中で、このままではいられないだろう、というおぼろげな思いと
このまま時間を止めて彼の中にいたいと、両方を願った。
破滅の先にあったのは、消えた存在の残した平穏。
これでよかったのか――あのときツナを抱いて俺は何を祈ったのだろう。
追い出すつもりもはね退けるつもりもなかった。
不器用な愛の残骸だけが胸に、突き刺さるように残る。
壊さないくらいに、愛してやれればよかった。
***
黒いスーツの男が「竹」に現れたのはある日の正午だった。
暖簾をくぐった気配は明らかに闇だった。
タイルをこつこつと歩む音は平常のそれとは全く違った。
戦慄を伴う沈黙が近づいて、山本は生唾を飲み込んで正面を見た。
「――久しぶりだな」
男の身長は知る限りよりはずっと伸びていて、その声も随分低かった。
「・・向かいの喫茶店で待ってる」
彼はそういい残すと店を後にした。じっとりとわいた汗が作務衣に滲んで、
山本の顔面は卒倒しそうなくらい青ざめていた。
店を一旦閉めてから、待ち合わせ場所に向かうと、リボーンは店の
一番奥に足を組んで座っていた。相変わらずの隙の無い姿に、山本は
額の汗を拭いながら近づいた。
「――お疲れ様」
どうも、と一礼して山本は向かいの席につく。相手は明らかに年下だが
気配に圧倒されてついつい頭を下げてしまう。
「うちの馬鹿が世話になった」
単刀直入にリボーンは切り出した。彼がツナの祖父の知り合いであり
さらにツナが組織を継ぐきっかけになったということを、山本は薄々ながら
聞いていた。彼が現れた理由も、おそらくは消えたツナ絡みなのだろう。
ウェイトレスがアイスコーヒーを運んできた。山本はそれを一口飲んだ。
冷たい液体が、煮えきった頭をゆっくりと冷やし喉を潤す。
リボーンは視線を伏せるとこう言った。なんの抑揚もない声だった。
「――半年前、獄寺が死んだ」
心臓が一瞬拍動を止めたようだった。山本は茫然とした表情でリボーンを見つめている。
その両目はくっきりと見開いていた。
「あいつもだいぶ依存していたからな・・葬式の後逃げやがった。
あちこち点々としたらしいが、お前にも迷惑をかけたと聞いてな」
これは謝罪の気持ちだ、とリボーンは続けた。山本の返事はない。
リボーンは懐から小切手を出すと、それを山本に向けて置いた。
金額を書く欄は空白だった。
「円でもユーロでも好きなだけ書いてくれ。後で部下が回収する」
男はそう告げるなり立ち上がった。伝票を持ってレジへ向かう。
しばらく向かいの男は立ち上がれなかった。言葉を発することも
できなかった。ただ――硬直して、机の上の紙切れを見つめていた。
――・・これは、手切れ金のつもりか?
固まった脳みそが問う。初めて会ったときツナも笑顔でカードを
差し出した。ここにおいてくれるならいくらでも払うよ、と。
これはビジネス――居場所のなくなったボスの、一時の身の寄せ場に
過ぎなかったのか。
もう一人の自分は首を振る。いや、違う。確かにあの時俺は――ツナを愛した。
めちゃくちゃになるくらいに。唯一の仕事すら上手く出来なくなるくらいに。
でも・・それは確かに現実だった。記憶に残る甘い夢じゃない。
どろどろとした原色の、紛れも無い現実だったのだ。
そして――今もその現実に添って生きている。彼のいない世界で。
山本は立ち上がって、喫茶店を出て駆け出した。慌てて店に戻り――レジの奥を開ける。
ツナから受け取ったクレジットカードを入れた場所。
普段札束を入れておく処に、カードの代わりに小さな黒い塊があった。
取り出して光の下で見るとそれは、鈍い鉄の輝きを放った。
ひとを十分殺傷する能力を宿したそれは――彼が初めて握った銃だった。
***
空港についた時は陽が落ちていた。リボーンは煙草を一本ゆっくりと吸いながら
国際線のロビーに座っていた。
「・・遅かったな」
「――気づくのが、ですか?」
走りやすいよう上下のスウェットに着替えた山本は、肩で息をしながら答えた。
右手にしっかりと銃を握り締めたまま。
リボーンはその様子を眺めると苦笑した。いくら日本とはいえ、剥き出しの銃を持って
よくここまで来たものだと――警官に捕まったら即刑務所行きだぞ、と思ったが
運の良さも必要なのだろう。これから生きる修羅の道でなら、それも十分条件だ。
「・・まぁ、いい。いいかげんそれを仕舞え。ツナが――待ってる」
「――本当に?」
山本の問いにリボーンは片眉を上げた。
飛行機は特別にチャーターしたものらしい。リボーンと山本を乗せると
それは程なく離陸した。機体は徐々に空へと向かう。絶望を折り重ねた地を置いて。
希望もない場所へ針路を辿って。
山本は膝の上に銃を置いた。小さいながらもずっしりと重く、銃弾も装てんされていた。
これで人を殺す日が――いつか来るのだろうか。山本は思った。どうせ一度死んだ身だ、何にでもなれる。
店は出て直ぐに火をつけた。近所に迷惑をかけることになるだろうが
ツナと愛し合った場所を残しておくことはできなかった。
「竹」も「二代目板長」も死んだのだ。彼はそう思って両手を組んで額の前に置いた。
――親父、すまん・・
焼けゆく萌葱色の夢だけが唯一、自分を責めている気が――した。
***
大丈夫。君の骨は拾ってあげる。
(おしまい)