イタリア語はよく分かりません
ミラノはイタリアの街の中で一番、時間の流れが速い。
スカラ座を出て、鉛色の空を見上げた時シャマルはそう思った。
アルマーニのコートの襟を立てながら、足早にタクシー乗り場に向かう。
十一月ともなると、多少の肌寒さを感じるミラノの冬は
霧の多いところも日本とよく似ていた。
彼はポケットに忍ばせておいた、携帯用カイロに苦笑する。
――まるで、ほんとに日本にいるみたいだもんな・・
からりとした日が多い地中海性気候のイタリアにも、四季はある。
朝晩の温度差が激しい春、日中は三十度近くも気温が上がるものの、梅雨のない乾いた夏
雨の多い秋と、防寒具が必需品の冬。
「イタリアも日本と変わんねぇよ」
倍以上年の離れた東洋人のガキを、酒によった勢いで思わず口説いたのは十年前のこと。
そのとき狐色の眼を丸くした少年は確かに微笑んで何と言ったか。
その先がどうしても思い出せなくて、シャマルは頸を捻った。
――俺も・・とうとうボケたか?
無精ひげの生えた顎を摩って、彼が自嘲気味に微笑んだその時だった。
「久しぶりですね、ドクターも・・『椿姫』を?」
歌うような声に振り向くと、薄茶色の髪に揃いの皮のコートを着た小柄な男が
和やかな笑みを浮かべて立っていた。
もちろん、右手には灰色の髪を束ねた長身の男を、左手には黒いスーツに
帽子を斜めに被っている男を当然のように携えて。
「あぁ・・知り合いのつてでな。ああいうのも、たまには悪くない」
と、シャマルは答え煙草に火を付けた。芸術に造詣は深くは無いが
目の前で繰り広げられる人生の結晶のような幕劇に、時間を忘れて見入ったのは事実だった。
そっけない彼の言葉に、側近の灰髪の男は眉間に皺を寄せたが
ツナは意に介していない様子で続けた。
もともと、つかみどころのない男だった。
「俺も感動しました・・イタリア語は、よく分かりませんが」
何気ないツナの一言に、思いついたようにシャマルは面を上げた。
十年前、赤ワインを一本空にしながら、冗談交じりで呟いた台詞の続きを思い出したからだった。
『イタリアも日本と変わんねぇよ』
『・・俺、イタリア語分かりません』
『んなもん、俺が教えてやるよ』
――お前がこっちに来たら、ベッドの中でな。
そう耳元で囁いてやると、少年はこそぐったそうに肩を竦めて笑った。
男も悪くない、と思ったのは後にも先にもそれが最後だった。
「イタリア語、教えてやろーか?」
人差し指と中指の間に煙草を挟み、煙を細く吐きながら尋ねると
十年経ってもほとんど容姿の変わらないその男は、彼の言葉を伺うように頸を傾げた。
隣に立つ右腕を自称する男だけは、その台詞に今にも噛み付きそうな視線を送ったが。
「珍しいですね、どういう風の吹き回しですか?」
「俺だって、たまには親切の一つもするよ」
それは嘘だったが、先に述べた誘いは本当だった。
ただし、睦言を交わす中でなら――の条件付きだったが。
彼の言葉の真意を掴んでか否か、ツナは沸き立つような微笑を浮かべると
「たまには好意に甘えることにしましょう」
と告げ、迎えのタクシーにさっさと乗り込んだ。爆発しそうなくらい不機嫌な表情を
浮かべる彼の秘書を一瞥すると、シャマルは煙草を路地に落とし
靴の踵で火を消してからツナの隣に腰掛けた。
いきつけのホテルの名前を手短に運転手に伝えると、駆け引きと打算を乗せたハイヤーは音も無く
小雨の降り出した街を出発した。