煙草












「獄寺君て・・煙草いつから吸ってるの?」


 そんな疑問がふいに浮かんだのは、補習のプリントを片付けために
教室で居残りをしていた、金曜の午後。

彼の胸ポケットから僅かに覗く白い箱を見ながら俺はそう尋ねた。
単純な好奇心から湧いた質問だった。

「九歳くらいのときっすかね・・」

 ぼんやりと何かを思い出すかのように視線を上げて彼は答えた。
その横顔がほんの少しだけ寂しそうだったのが、
少しだけ俺の胸をちくちくと刺した。

「そんなに早いの?」
 俺は思わず声を荒げた。 先日、煙草が人体に与える悪危害を
テレビのニュースで聞かされたばかりだった。
「まぁ癖って言いますか・・」
 健康に悪いのは分かっているんですが、と彼は苦笑して頸を傾けた。
「もう中毒なんすよね」

 ニコチンは依存性が高い、とそのニュースでは告げていた。
血中のニコチンの濃度が下がるとどうにも我慢が出来なくなる
――それは、煙草が長らく嗜好品とされる所以でもあり
喫煙の難しさの裏づけでもあった。
「どうして吸い始めたの?」
 早すぎる喫煙の、その起点が気になって俺は質問を続けた。
その時少しだけ考えていた英文の訳は頭の外へ
飛んでいってしまったけれど。
「・・俺の母親が、吸ってたんすよ」




 呟くような声で彼は視線を落として答えた。

彼の姉と彼が異母兄弟であることを俺はリボーンから聞いていた。
ビアンキの瞳は透き通るようなグリーンなのに、
獄寺君の眼はすこし曇りかかったブルーだったのだ。

リボーンの話によれば、正式な獄寺家の跡取りは
ビアンキではなくて彼なのだという。
実家を継ぐことを拒んだ彼が長い流浪を経て
ボンゴレに行き着くまで実に八年の歳月を要した。
彼の母親は彼が幼いときに失踪し、現在も消息不明だと言うが
その辺りの彼の実家の深い事情は分からない。

 そう答えた彼の、下りた睫の影がかかる蒼い瞳が少しだけ淋しそうだったこと。
小さな声が告げた事実の裏側にどんな家族間の愛憎と軋轢が隠されていたのか、
俺には知る由も無いけれど。

「・・大丈夫だよ」
 思わず喉元を駆け抜けた返事に、俺も彼も眼を丸くした。
淋しそうな彼を見てられなくて湧き出た言葉だった。
獄寺君は持っていた鉛筆を置くと、言葉の真意を聞き返すように俺を見た。

「大丈夫だよ。俺も山本もリボーンも、みんないるし・・」
 だから、と俺は続けて口ごもった。何がどう大丈夫なのか俺にもよく分からない。
ただ煙草を吸い始めた彼と今の彼との相違点はただひとつ。
 彼が今、一人じゃないこと。

 言葉が続かなくて俺が俯くと、獄寺君は俺の右手をそっと両手で握って
サファイアみたいな両眼を細めた。俺が一番好きな、彼の笑顔だった。
「俺は・・十代目が居てくだされば十分です」

 そう答えた彼の、口元がゆっくりと近づいてきて俺は思わず眼を閉じた。
柔らかくて温かいものが唇に当たって、そのまま開いた口元で僅かに触れたもの。
それが彼の舌だと気づいた瞬間、抗いがたい何かに
握られた俺の心臓がぎゅうと音を起てて潰れた。

からっぽになった胸の隙間を埋めるのは、
言葉にもできないひどく鮮烈な、狂おしいひとつの感情。
 覚えているのは、青から朱へ変貌する西の空の輪郭の無い太陽と
苦くて痺れるような彼のキス。



絡み付いた舌はニコチンの味しかしなかったのに
触れあう口腔は泣き出しそうなくらい甘かった。