りんごとさくらんぼ













 ランチアさんの手のひらってあったかいんですね。ある日、そう言った。
 俺の言葉にランチアさんはひどく驚いたような眼をして、そして顔中がさくらんぼ色になった。
照れているのだ、と思った。俺はランチアさんの肩にゆっくりともたれて、さっきから延々と
サッカーの中継をしている黒い箱に視線を戻した。無言なら、やり過ごしてしまえる。
それから小一時間ほど経っただろうか、それはするりと伸びて俺の肩を掴んだ。
包むように触れた。温かい。やっぱり・・ランチアさんの手のひらって安心する。

 それは幼くして父親と別れた俺が求める憧憬だったのかもしれないし、
違う何かなのかもしれない。でもやっぱりランチアさんのそばにいたくて俺は
テレビに飽きたふりをして眼を閉じた。ランチアさんは、固まってしまっている。
たぶん俺が起きるまで動かない。ポーカーで賭けてもいいくらい動かない。
それがランチアさんのいいところでもあり、困ったところ。優しすぎると・・
どう我儘を言っていいのか・・分からないんだ。

 眼を開けると体は既にベッドの中に横たわっていた。
彼が運んでくれたのだと直感する。丁寧にかけられていたタオルケットを畳んで
足早に二階に下りていく。起きるには早くても寝るには遅すぎる。
おそらく彼はキッチンにいるだろう。
どこからか、バターと卵と、ソーセージの匂いがする。

「・・ランチアさん、おはようございます」
「――もう、起きたのか・・」

 はい、と俺は笑う。とても行儀よく。ランチアさんもつられて微笑む。
彼の幸せそうな表情が俺の心臓を壊れるくらい強く鳴らしてしまうことを
彼はきっと知らない。だから俺に優しいのだと思う。
 俺はランチアさんの手を取る。小麦色に膨らんだ卵焼きの空気の抜ける匂い。
こげ茶色のバタートースト。ゆであがったソーセージにマスタードと胡椒を添えて。
ここには、大好きなものがたくさん溢れている。
勿論ランチアさんも、その中の大切な一つだ。

 驚いた様子のランチアさんにキスをする。彼はうっかり、フライパンを
コンロに落としそうになった。俺はすぐに離れて「昨日のお礼」と言った。
イタリアの人はなんでもハグとキスだってテレビで言ってた。時にはテレビも役に立つのだ。
 ランチアさんは畑から摘んできたばかりのトマトみたいになった。
俺だって色づいたばかりのりんごのようだ。でも後悔は無い。だって好きなんだから。

 勢いよく背中を見せてリビングに戻る。ランチアさんの腕は止まったままだ。
ランボの大好きな玉子焼きがこげてしまっても
イーピンの大好物のバタートーストが灰になっても俺の、せいじゃないよ。

 だって、大好きなんだから。