「10代目、お体の調子でも悪いのですか?」
放課後、数学で赤点を取ってしまった俺は
居残りで宿題のプリントに取り組んでいた。
英語だけじゃなくて、他の科目もほとんど満点な
獄寺君は一緒に教室に残って俺に勉強を教えてくれる。
彼のおかげで赤点ながらも、俺のとる点数は確実に
上がりつつあった。
彼の言葉に、俺が鉛筆を置いて前を向くと
心配そうな青い瞳が俺を覗いていた。
「大丈夫だよ・・なんで?」
「10代目――お昼残していましたから」
まるで尻尾を垂らした犬のように、彼は頭を
垂れて答えた。俺はなんとなく図星を指されている気がして
さっと下を向きプリントを読むふりをする。
「ちょっと・・食欲なくってさ」
早くも夏ばてかな、なんて俺が大げさに笑うと
彼は切羽詰った真剣な声を出した。
「・・俺が、10代目のウインナー食べちゃったからですか?」
思わず、俺はぶっと息を吐いた。慌てて正面を見ると
深刻な表情の彼と眼が合い、俺は息を飲んだ。
憂いをたたえた瞳が、くっきりとした顔立ちに影を与え
夕暮れに染まる銀色の髪は、微かな風に棚引いている。
――美しいなんて、同年代の・・しかも同性に使う言葉
ではないけれど。
夕闇に滲んだ彼の横顔はこの世のものとは思えないほど
美しかった。
俺は唾を飲み込むと、息を落ち着けてから答えた。
「そんなの関係ないよ・・俺が獄寺君にあげたんだし」
「俺の眼を見てください、10代目」
縋るような彼の言葉に、走らせた鉛筆が止まった。
どうしても、彼と眼を合わせて話すことが出来なかった。
――あの蒼い瞳に何もかも・・見抜かれそうだったから。
「何か・・あったんですか?」
何もないよ、と俺は頸を横に振った。朝から頭の中を
離れないことを言えるはずもない。
「俺が・・嫌いになりましたか?」
そんなこと絶対にない、と言いかけて俺は口を噤んだ。
悲壮な眼で俺を見つめる彼は・・今にも泣き出してしまい
そうだった。
「・・嫌いになるわけないよ。獄寺君には・・ずっと感謝してる」
おかげで朝は遅刻しないし、勉強も教えてもらえるから
テストの点だって上がった。獄寺君はときどき突拍子もないけど
優しくてきれいで不思議な・・俺の大切な友達だった。
でも、どうしても前を向いて彼の眼を見ることが出来ない。
右手が震えて歪んだ俺の字は、おそらく彼の表情そのもの
だったはずだ。それから俺と獄寺君は無言のまま自習を終了して
家に帰った。
異変が起きたのは、次の日の朝だった。
ワンワン、と耳に慣れた声がして俺は飛び起きた。
ベッドに上がって、俺を押し倒しているのはパジャマ姿の
獄寺君――ではなくて、二週間前いなくなったはずの例の
大きな犬だった。
「ご、獄寺君!?」
俺が叫ぶと、その犬はわん、と一吠え鳴いた。どうやらうん、と
言っているらしかった。
――犬の姿に・・戻っちゃったの!?
それきり二の句が告げない俺に、彼はクンクンと鳴いて
鼻先を右手に押し付けた。頭を撫でろ・・と言っているらしい。
「お前・・本当に獄寺君なの?」
真っ黒な毛並みを撫でながら恐る恐る尋ねると・・
その犬はわん、と吠えた。
「・・なんで戻っちゃったの?」
彼はわうわうと理由を説明したが、俺にも思い当たる節は
あった。昨日の――小さな行き違いが、もしかしたら彼を
犬の姿に戻してしまったのかもしれない。
――俺の・・せい?
何だか泣きたくなって、俺は彼の背中を抱きしめた。
つやつやとした毛並みが朝日に光り、ふさふさした頸元に
顔を埋めると太陽の匂いがした。
確かに獄寺君はここにいる・・でもここにいるのは
――毎朝抱きついて起こしたり、一緒にご飯を食べたり
勉強を教えてくれる獄寺君じゃないんだ。
両方とも・・いつもそばにいてくれる――獄寺君なのにね。
「・・ごめん。獄寺君、ごめんね」
俺は顔を埋めながら何度も謝った。彼の姿を見なければ
素直に謝ることができた。
「俺・・ずっと嫉妬してた。獄寺君の前の主人とか、その人と
仲良かったのかなとか、どんな風に暮らしてたかとか・・気になって
仕方がなくて」
そんな自分が嫌で。これ以上君を独占したがっているなんて
認められないまま。
「だから嘘をついたんだ。俺・・獄寺君に感謝してるよ。
でも・・それだけじゃなかったんだ」
少しずつ声が掠れだして・・俺は泣いているのだと気づく。
「俺・・獄寺君とずっと一緒にいたい。獄寺君の恩返しの
期間が終わっても。獄寺君に・・新しい主人が出来ても」
それは決して叶わない願いだと知りながら。
「獄寺君帰ってきて・・俺、獄寺君じゃないと駄目なんだ」
俺が彼の喉元から顔を離すと、その大きな犬は長い舌を出して
ぺろぺろと俺の涙をなめた。なぐさめてくれているようだった。
「・・くすぐったいよ、獄寺君」
顔中をなめられて、俺が笑ったそのときだった。その犬の口が
俺の歯に当たり――部屋の中で何かが弾けた音がした。
例の・・一過性の竜巻が巻き上がりシーツがふわりと天井を
舞った。それに覆われたのは――全く服を着ていない「人間の姿の
獄寺君」と、俺だった。
「――んんっ・・ふっ」
獄寺君、服着なきゃと言うつもりが俺の唇はずっと彼に
閉ざされたままだった。それをキス、だと気づいたのは絡み合うのが
お互いの舌だと気づいた瞬間。
朝焼けに滲むベッドで――シーツに包まれたままのキスは
母親が朝食を呼びに来るまで続いた。(結局彼は母親が俺の部屋の
ドアを叩くまで、シャツひとつ身に着けなかった)
それから――俺と彼は仲直りした。ただ、もう友達としては
いられなくなったけれども。
――もう少し続きを知りたい?うーん・・
獄寺君が・・俺を離してくれたら、ね?
(おしまい)
(獄ヒット部屋より再録)