[ 前例 ]




 俺の知りうる限りでは彼は十年最強の男だった。そしてそれ以外の
情報を何一つ俺は持たせて貰えなかった。生まれた場所、育った土地
築いた栄光、散らせた華。こんなに長い間彼のそばにいる人間もそうそう
いないだろうと彼に言うと、リボーンは口の端を上げて答えた。

「まぁ・・前例はないだろうな」

 それはそうだ。俺と会ったとき彼は一才だった。ボンゴレ九代目との
契約期間はたった三週間。彼はその短い期間だけで電光石火、ボンゴレ一の
ヒットマンに登りつめたのだ。実力を考えれば当然の結果だった。さらに
満を持して、十代目継承者争いが始まり彼も巻き込まれた。当初の候補達が
次々不審な死を遂げたからだった。血の一番遠い俺に白羽の矢が立ち、彼は
日本に向かった。家庭教師を務めるのは、人生で初めてのことだった。

 殺すより生かす方が何倍も難しかったよ、と彼はその当時を語る。
俺があまり駄目人間だったからだろう。それは余り代わり映え無いものの、今こうして
何とか十代目の椅子に腰掛けていられるのは、彼の教育の賜物なのだと俺は思う。
俺をここまで押し上げてくれた彼には実はとても感謝しているが、
そう告げると何をお礼に要求されるか分からないので
ずっと、内緒にしておこうと思っている。


「十年立っても一人前になれないボスは初めてだしな」
「・・悪かったね、出来損ないで」


 俺に会う前はディーノさんに稽古をつけていたというから、比べられると
こころ苦しくもなる。キャバッローネファミリーは群を抜く勢いで成長し
いまやボンゴレ同盟の三本の矢と言われる存在に成長した。それはすべて
その若き十代目の成した偉業だった。ディーノさんは尊敬してる。すごいなぁと
思う。でも遠い。あまりに遠すぎて、アイドル歌手や映画俳優のように思ってしまう。
一番身近な同盟のボス同士なのに近づけない。持っている能力差が余に大きいのだ。

ねぇ、リボーンと俺はソファー向こうの彼に問う。背中を向けていて
表情は見えない。手にはおそろいのグラスに、差し入れのワインが浮かんでいる。


「・・一人前になったらさ、君はここを出て行くの?」
「――そうだろうな」


 至極当然のように彼は答えた。俺はロゼを煽る。付け合せのチーズを喉に
放り込む。自棄酒ならぬ自棄ワイン。イタリアに来て覚えたことだ。
 彼はそんな俺を察したか、呆れて肩を落とした。離れていくなんて言われたら
酔いたくなくても、飲んでしまうんだ――仕方ないよ。


「・・そんなに俺無しで、生きていきたいのか?」


 リボーンの言葉に俺は喉にチーズを詰まらせた。出て行かないならこんなに
嬉しいことはない。彼がいないと困るのは、俺だけじゃないからだ。ごほごほと
咳をしながら「君がいてくれたら百人力だよ」と答えると、彼はため息を返事に
変えた。


「しばらくは君から合格貰えそうにないから、安心だと思って」
「・・ボスの台詞かそれは」


 すいません、と小さく言う。出来が悪いことに感謝したのは初めてだったのだ。
前例は二度と、作らねぇよ、と彼は言う。こんなボスの面倒を見る前例という意味
だろうか。


「お前で最後なんだ、例なんてつくれるか」
「・・リボーン、どうしたの?」
 酔っ払っちゃった、と振り向いた時の彼の瞳の近さに俺の心臓が
止まった。次いで息も止められた。流れ込んできたのはさっき喉に押し込んだ
ワインとはまったく違う味の――


「・・これも、前例あり?」


 唇を離して彼に問うと、彼はまさか、と耳たぶをくすぐった。アルコールに
溶かされた喉から息が零れるより早く彼と、前例の無いキスをした。