眼を開けると、部屋は真っ暗だった。
今度は夜中の12時に起きてしまったらしい。
あまりの時間感覚の無さに、ツナは苦笑する。
いつ行為が終わって、浅い眠りについたのか
ここで暮らすようになって何日経つのか
そんなことさえ気にならなくなるくらい
ツナは獄寺との行為に溺れていた。
その意味と隠された罠も、知らぬまま。
『 愛河 3 −lust− 』
「おはようございます、10代目」
その朝も、同じように始まった。
穏やかな獄寺の声と、パンを焼く香り。
どんなに激しい行為の後でも、起きたツナを迎え入れる獄寺は優しく
乱れたはずのシーツは皺ひとつなく、汗と精液で汚れたはずの体は清潔に
保たれていた。
・・あのまま、寝ちゃったんだ。
眩しそうに眼を開けたツナは、節々が痛む体を労わるように起き、
辺りを見回した。
ベッドと壁しかない殺風景な部屋には他の家具一つ見当たらない。
「まるで引越しするみたいだ」
そう呟いて、ツナは愕然とした。
――引越し?・・誰が、何処に?
何か大切なことを見逃している気がして、ツナはシーツを握り締めた。
漠然とした違和感と疑問。
そして、言いようのない――不安。
雪崩れのような行為から始まったこの関係。
それが破綻したとき、自分を待っているものは?
ツナは言葉を失った。
その先を想像するのが怖かった。
一度知ってしまった悦楽からは、
簡単に逃れることは出来ない。
自分の意思に反して熱くなる身体は既に、
快楽の虜になっている。
獄寺から与えられた甘美な麻薬は、ツナを十分に侵蝕していたのだ。
――狂おしいほどの、執着として。
「もう・・夏休みも終わりですね」
淋しげな声がして、ツナは振り向いた。
声の主である獄寺は大きなスーツケースを携え、
その身を真っ黒なスーツに包んでいる。
「・・どうしたの、獄寺君?」
――まるで、マフィアみたいだよ。
そう言いかけたツナに、獄寺は優しく微笑んだ。
「俺、明日イタリアに帰ります」
「・・獄寺君!?」
「これが、リボーンさんとの約束でしたから」
すみませんと、深々と獄寺は頭を下げる。
「先立つ非礼を・・お許しください」
「どういう・・こと?」
あまりの衝撃に、ツナの視線は宙を泳いだ。
発端は何だったか?――そう、獄寺に懇願されたのだ。
1週間だけ、自分のそばにいたいと。
その意味も分からず頷いたのが、そもそもの始まりだった。
「貴方がイタリアに渡れば・・もう俺は貴方に近づけません」
貴方は完全にリボーンさんのものになりますから、と
獄寺は沈痛な面持ちで吐露した。
たとえ右腕になれたとしても、心身ともに近づけるのは
ボスが認めた「お目付け役」だけ――もとい、マフィアの世故に
疎いツナにはリボーンの監視と護衛は欠かせないことも、獄寺は理解していた。
たとえ遠くイタリアで再会したとしても、もう以前の二人には戻れないことを。
「俺は・・1週間そばにいられれば、貴方への思いは
断ち切る。そうリボーンさんに約束しました」
ツナは初めておぼろげだった記憶を呼び起こした。
リボーンの言葉は衝撃と呼ぶに相応しかった。
『夏休みの間だけ、お前は獄寺のものになる』
――それが、約束だったのだ・・
二の句が継げないツナに、獄寺は淡々と話し続ける。
「もともと俺は・・貴方が10代目に相応しいかどうか
確かめにきたのです。貴方の10代目が確定した以上、
俺はお傍にはいられません」
貴方の傍にいて直接支援できるのはリボーンさんだけです、と獄寺は言い
「貴方と勝負をつけてからすぐ、俺は帰国するはずでした。
でもわがままを言って、日本滞在を伸ばしてもらいました」
「・・ここはどこなの?」
「ここは俺の家じゃありません。リボーンさんの別荘です」
ツナは絶句した。この場所は、獄寺が自分を連れ込むために
提供されたものなのだ。
つまりリボーンはこうなることを予測して、
合宿と銘打ち自分をここに連れてきたことになる。
ツナは、全身の血が一気に頭から引いていく思いだった。
獄寺の苦悩も知らないままに自分はその願いに加担し、
快楽に溺れていた。
さらに悦楽に耽溺した体は一切の思考を拒否し
記憶さえも定かではなくなっていたのだ。
「俺は・・どうなるの?」
「このまま日本にいてください。準備がつき次第
迎えを送ります」
「いやだよ、そんなの・・」
――信じない。いや、信じたくない。
ツナは喉を絞るように声を出した。胸が張り裂けんばかりに苦しい。
「・・こんなのってないよ・・」
――苦しい・・こんなにも苦しいのに。
君を引き止めることが出来ない。
あの朝聞いたリボーンの言葉。
ツナは、その意味を初めて理解した。
『――ただし、今後獄寺に対する個人的感情は捨てろ』
「・・できないよ」
――君を忘れることなんて。
ツナの大きな瞳から涙が零れた。それはとめどなく溢れ、
頬を伝い・・顎からシーツに落ちていく。
この身体中が彼のことを覚えている。つかんだ腕、手を回した背中
受け入れた唇――彼の痕跡が残した気だるい感覚。
今なら分かる、何故逃げなかったのか。
――嫌じゃ・・なかったんだ・・
逃亡を選ばなかったのは、その行為に溺れていたからだけではない。
そばにいたかったのだ。
羞恥や屈辱を受けてでも、離れたくなかった。
・・獄寺君が、好きだったんだ・・
ツナは倒れるようにベッドに伏せた。その
身体から低く嗚咽が漏れる。
この思いを伝えるたった一言が許されない。
『行かないで』
リボーンの言葉は絶対の掟なのだ。
それを破ることはファミリーへの反逆――即ち、死を意味する。
それなのに何故・・一番大切なことに最後になって気づくのだろう。
「すいません・・俺のことは、忘れてください」
獄寺は悄然とした様子で謝った。
自分の身勝手な思いで申し出たことだったが、
ベッドの上で慟哭し項垂れるツナを見ていると
決意したはずの胸が痛んだ。
――この人は未来の自分のボスになる方だ。
この先、馴れ合いや触れ合いは許されない。それはボス・・
ひいてはファミリー全体を危険に侵すことになる。
いずれ障害となる思いなら、ここで断ち切ったほうがいい。
次に会うときはボスと一介の部下なのだ。
「・・イタリアでお待ちしております」
獄寺は唇を噛み締め、ツナに深々と礼をする。
もう決して面には出せない思いを込めて。
「獄寺君!!」
背を向けてドアの方に歩き出した彼にツナは叫んだ。
その声は虚しく部屋に響き――ドアが閉まるまで止むことはなかった。